紅き唇 褪せぬ間に
虎猪前提の、猪←栗+虎←桃。成就しない方向。



「猪里くん、好きな人いると思う?」

さっきまで泥だらけになっていた沢山のユニフォームを干して、晴れた空を見上げたら耳に入った問い掛け。私の勘が鋭くたって鈍くたって、使い古されたようなこの台詞を口にする女の子は絶対に恋してるって知っていた。
「かの、猪里くん好きなんだ」とからかうように笑い混じりで言ったら、静かになった背後には真っ赤になったかの子が俯いてた。そっか、こんな純情な子でも恋をするものねと応援してあげたい気持ちになったけど、でも私にはそれが出来なかった。理由はちゃんとあるけれど、私の知る真実を私の口からこの子に言うにはすこし酷だった。
恋する気持ちなら私もちゃんと知っている。でもそれはかの子が抱いた想いほど深い意味のあるものじゃなくて、きっと「いいなあ」と思ったくらいのもので、私みたいにすぐに諦められたような恋じゃないと思う。だって、私はあの時あの事実を見て、すんなりと受け入れられたもの。

「未月ちゃん、私…私ね、こういうことって、今まであんまり…」
「かの、初恋?」

恋する女の子はとてもかわいいと思う。控えめに頷いた彼女は多分何も知らなくって、私みたいに面食いじゃないし、私みたいに異性ばかり見るような子じゃないから、だからこそ余計、かの子を救ってあげたい。かの子が初めて好きになれた人だというなら、ちゃんと応援して、彼と一緒になって欲しいと思う。でも、私には心からの「がんばって」がどうしても言えなかった。言えない理由があった。

「ねぇ、猪里くんは恋人……いるのかなぁ?」

初夏の風がショコラ色の髪を少し揺らした。頬を染めてはにかむ女の子は、やっぱり、かわいかった。あの春の日に私があの場にいなければ、きっと精一杯応援してあげられたんだと思うけれど、どちらにしろ彼女は傷つくんだ。





その日、猪里くんは偶然一人だった。私が背中を押してからもずっと躊躇していたかの子は、行っちゃうよって焦らせると半ばやけくそ気味に走っていった。校門前で当の背中にぶつかりそうになって立ち止まれば、ゆっくり振り返った猪里くんは目をぱちくりさせていた。ここまで彼女達の声は届かない。目をこらして部室の裏からそっと伺っていると、耳まで赤くなったかの子が勢い良く頭を下げた。あんなに真っ赤になっちゃって、彼が鋭い人だったらすぐに勘付かれちゃうな…と思いながら見ていたら、ふわりと優しく笑った猪里くんとかの子はそのまま校門を出て歩いていった。
きっと、下校のお誘いをしたんだな。たったそれだけのことなのに必死で、もどかしくて、でも微笑ましい、かの子の第一歩。部室の影から出て後ろ姿を見送っていたら、ぱっとかの子が振り返ったから、ぱちんとかわいくウインクをしてあげた。幸せそうな笑顔を返してくれたことに手を小さく振って、慌てて猪里くんに歩数を合わせた背中を見えなくなるまで見ていたら、急に後ろから頭を大きな手に鷲捕まれる。

「ひゃわぁ!」
「どっからどう見たって怪しいZe、未月。何してんDa?」

そのままぐらぐら揺らされて振りほどく。びっくりして変な声を出してしまった。勢い良く振り返ってぎーっと睨むと、こいつはまたあの笑い方で八重歯を見せた。確かに隠れて手を振る私は怪しかったかもしれないけど、女の子に不意打ちで乱暴するなんて卑怯だ。
何してたのってもう一度聞かれて、ぷいと外方を向いた。言いふらすようなことじゃないし、何よりこいつにだけは絶対に、何があっても、知られちゃいけないことだった。

「虎鉄には関係ないから言わないの。鳥頭に言ったってすぐ忘れちゃうでしょ」
「ひっで。じゃあ鳥頭のオレが忘れないうちにこの間の千円返せYo」

うげ、と引きつる。忘れてた。片手を差し出してにやにや笑う虎鉄には財布忘れたって誤魔化して、疑いの目を避けながらひらひらと笑った。
けど、すぐに「ま、いいや、それよりさ」と話を変えられる。いつのまにやら携帯を出した虎鉄は、画面を一目見てから素早くボタンを打った。短文なのか、ほんの数秒で携帯を閉じるとそれごとポケットに片手を突っ込んだ。

「猪里知らNe?」
「さぁ」

予想はしていた。虎鉄が突然「それより」なんて言う時は、大体猪里くん絡みのことだ。少し即答すぎたかと思えば、案の定虎鉄は怪訝そうに眉を寄せていた。

「嘘だRo」
「見てないよ。ていうか猪里くんいたら虎鉄どうしたのか聞いてるし」
「なに?オレに会いたいから?」

違うし、何言ってんのばか、と笑ってバンダナを叩く。答えたわけは、二人が一緒にいないことが珍しいからだった。いつも二人一組の彼らが片方しかいなければ声をかけたくなるもの。虎鉄も言葉の意味は読み取ったみたいで、ふざけて笑い返しながら視線を巡らせた。
別にこの後予定があるんでもないでしょうに。だって約束していたなら猪里くんは絶対に待ってるもの。どうせこの後猪里くんの家に向かったところで合鍵があるんでしょうに。猪里くんが先に帰ってしまった理由はわからないけど、毎日嫌と言う程一緒にいるんだから。――と、少し悪態付いてしまった頭を振った。

「今日なんかあるの?」
「別に」
「じゃ、さ、アイス奢るからちょっと遊ばない?」
「うっそ。未月がオレに奢りとか。マジ?」
「それで千円チャラね」

しし、と笑って鞄を振る。訝しげな顔が引きつり、ちょっと待てって反論される前に校門を出た。振り返れば急に早足になった虎鉄に追い付かれそうになって、笑いながら伸びてきた虎鉄の腕をひらりとかわす。お前なぁ!なんて叫ばれて、男の子は声がでかいなぁと思ったりしながら、かの子は上手く行ったかなって、少し心配した。
本当は、本当は上手く行かない方が小さなショックで済むんだけど、今のうちだけでも幸せな想いをしてくれたらなって、そう思ってた。一番の幸せは好き合えることだけれど、それはもう少し早くに想いを伝えられたら間に合ったかもしれないことだった。私の想いだって、同じだった。
かの子まで寂しい想いをするのなら――もしも虎鉄が、私と付き合っていたなら。





「も少し強気になんなくちゃ、振り向いて貰えないかもよ」
「でも私、一緒に帰れただけでも良かったから」

翌日の放課後、私達は喫茶店にいた。アップルティの香りを密かに愉しみながら、昨日は途中の曲がり角でさよならしてしまったと言うかの子を控えめに叱った。「猪里くんも、女の子を家まで送ってあげるのは常識なのに」と不機嫌に呟けば、すぐに「違うの」と反論が返ってきた。聞けばどうやら猪里くんは買い物に行くからと、頭を下げられて別れたらしい。彼は田舎から上京して、家事とかもやっているんだっけ…と思い返してすこし納得するけど、でもそれって、昨日じゃなきゃいけない買い物だったのかな?とかの子に問い掛ける。
彼女は少しだけ思考を巡らせて、グラスの中でストローをくるくるまわしていたミルクティを、一口飲んだ。

「急用…って」
「何の?」
「メール見て言ったの。あ、って、急に。買い物行かなきゃならなくなったって」

猪里くんが携帯を持つところがすごく想像しにくかった。けど、彼がメールを見てから買い物に行ったってことは、こっちで一緒に暮らしているらしい親戚の人からの、おつかいか何か?
なんとなく考えながら自分のアップルティを少し口に含んだ時、香りと一緒に記憶が浮かんだ。昨日、かの子達が下校していた頃、私は、虎鉄は――ひとつの推測が浮かぶ。

(…しまったなぁ)

昨日、私が誘うままに二人でコンビニへ寄って、私が虎鉄にアイスを奢る話は結局千円をチャラにすることが出来なかったので無効になった。でも私も虎鉄も暑いと思ったのは同じだったから、二人とも自腹でアイスを買って歩きながら食べた。それからゲームセンターに行こうかって話していたのだけど、やたら携帯で時刻を気にしていた虎鉄が商店街の付近で立ち止まったのは、二人ともアイスを食べ終える頃で、私が最後の一口を噛った後に棒をくわえた虎鉄が言ったのだった。

「夕飯の材料、買いに行ったのかな。買い忘れがあったのかもね」
「そうだね」

たぶん、間違いない。校門前で虎鉄が打ったメールは猪里くん宛のものだった。それに、
―――未月、オレ今日やっぱ、パスNa―――
引き返すのではなく商店街の向こうへ歩いていってしまった虎鉄を、私は呼び止めておきたかった。咄嗟のことに思わず肯定の相槌を打って、そうしたら軽い謝罪と一緒に一瞬だけ頭へ手を置かれて、「それじゃ」と言われて、私はぼんやりとしたまま手を振り返してしまった。少しの間立ち尽くしていた私は、開いた携帯に返信が入っていたのかなと思ったのだ。きっと、虎鉄は私の誘いを断って猪里くんのところに行ったんだ。かの子に謝罪して買い物へ走った猪里くんはおつかいに行ったのではなくて、虎鉄が家に来るから食材を買い足しに行ったんだ。
そこまで気付いてしまうと、なんだか、後悔した。私が虎鉄の腕を引っ張っていたら良かったのかな。そうしたら猪里くんも、かの子を家まで送ってあげられていたかもしれないのに。

「…ごめんね、かの」
「え?何が?」
「強気になれーとか言っちゃって。かのは、かのなりに頑張ってほしいの…」

首を傾げるかの子に笑いかけて、残り少なくなってしまったアップルティを飲み干した。もっと好きな人に対して強気になれだなんて、自分にも言えることだ。
(一度諦めたじゃない)って。(好きなんじゃなくて、少し気になってただけだったじゃない)って、頭の中では何度も言っていた。というより、自分自身気付いていなかったのかもしれない。かの子の恋を通して…叶わないかもしれない、かの子の恋を少しでも応援することで、自分の望みまで溢れ出しそうになって。どうせまた過剰な思い込みの恋心だと思っていたものが、幻だった筈のものが、はっきりと浮かび上がる。似合うと言われた桃色を塗った爪も、大きく見せようとした胸も、昨日彼が身に纏っていた香水に酷似していたアップルティの香りも。

「私も頑張るから、ね!」
「…未月ちゃん、もしかして、好きな人いる?」

諦めたと思い込んだふりして、無意識に求めていたみたい。私達に、私に、勝ち目なんてないのにね。また少し頑張って、今度はせめてこの気持ちだけでも伝えようと思ってしまう。かの子の恋を手伝うことで、私にもチャンスが巡るのなら。勝ち目なんて、最初からないのにね。可能性を信じてしまったら悲しみが大きくなるだけだっていうのに。

「わかんない。多分ね、実際告白してみて、フラれるまでわかんないと思うの。本当に」

虎鉄のことを。

「好きなのかどうか…」

好きだと、思いたい。
それがもし、誰かを傷つけることになったとしても。



08/03/--