水面下


虎鉄に「好き」だと言われたあの瞬間、多分俺は頭の中が真っ白になっていたんだと思う。じゃなければ、あの時冗談と笑っていられたのかもしれない。それが逃げ口になるかといえば、あまり意味のないことかもしれないけれど。

虎鉄のことは、親友と思ってるに決まってる。それ以上でもそれ以下でもない。だから勿論、そんなこと考えたこともなかった。当たり前だ、男なんだから。俺にそんな趣味はないし興味も好奇心もない。ついでにどちらの性の経験もない。だから、虎鉄があんなことを言い出して一番に俺は怖かったのかもしれない。気色悪い、信じたくないとは少し思った。けど、それ以上に虎鉄を親友として失うのが嫌だった。俺がこの告白に肯定の返事を返せば、当然のことに関係は一変する。けど、俺にその気はないし今後だって考えられそうにない。だからきっと断れば、一瞬にしてこの空気は気まずいものになってしまうんだろう。もしかしたら、虎鉄ともう自然な会話も一緒にいることすら出来なくなるかもしれない。それだけは避けたかった。でも、虎鉄と親友以上の関係になるのも嫌だった。どうして今のままで居ようとしてくれなかったんだろう、虎鉄は予想したんだろうか。こうなることをわかっていながらも伝えずにはいられなくなるなんて、恋愛の感情を知らない俺には理解出来ないだけなのかもしれない。
虎鉄は大好きだ。たった一年にも満たない時間ではあるけど、背中合わせで戦った。自分でも驚くくらいのスピードで虎鉄は俺の親友になった。なのに虎鉄はいつからそんな想いを抱えていたんだろう。虎鉄が何を思って、何を考えて俺にそれを伝えることにしたのか、その時の俺には到底解らなかった。



「諦めない」

テスト一週間前で放課後の校舎裏なんて、思ったより誰も来ない。広々としたグラウンドはいつもの部活動での活気が嘘みたいに静かだ。真冬の温度が手や頬を冷やしていくのに、長い沈黙を破って聞こえた言葉に俺は俯いていた顔を前へ向けるのが精一杯だった。

「絶対に諦めない。諦められないんDa。どんなに猪里が迷惑したとしても、これからもずっと猪里の側にいる」

何を思って、そんなこと言うんだろう。何も言えなくてただ黙って虎鉄の話を聞いた。断るとはっきり口にしてはいないのに、きっと俺の戸惑うような表情から否定の意思を読み取ったんだろう。なのに、それなのにどうして諦めてくれないんだ。

「今までにないくらい惚れてるから。今まで付き合ったどんな女より猪里が好きだから。こんな夢中になれた奴初めてで、手放したくない。絶対に」

恥じることなく繋げられていく言葉には躊躇いがなかった。こんなに真剣な虎鉄の表情は、もしかしたら試合中に放つ眼光の鋭さと同じくらいのものかもしれない。それでも俺の頬は赤く染まるどころか、申し訳なさそうに眉を寄せる程度だった。何を言われても何をされても恋愛すら未経験の俺を、況してや虎鉄に向けた感情を変えることなんて不可能だと思ったからだ。上手く言葉にすることも出来なくて、僅かに首を振った。けれど、言葉にはならない。

「猪里が、本当にオレを嫌いになったら、その時は諦めるから。…それまでは、時間、くれYo。何もしないって、誓うから…」

虎鉄が静かに笑った。自嘲気味にも思えるそれは、俺の前で消えると踵を返してしまう。言い逃げか、と頭の中では毒づくのに、返答も呼び掛けることもしないまま、気付けば俺は一人で校舎裏に立っていた。




次の日から変化が見られるかと思った虎鉄は、思いの外いつも通りに接していた。あれだけ思わせ振りな台詞を残しておいて翌日にはノータッチで挨拶してくるなんて、余程の神経の持ち主か、単に俺が考えすぎなのか。でも俺にとって虎鉄の自然な振る舞いは本当に嬉しかった。女を口説くように口説き倒されでもしたら本気でどうしようと思っていたし、虎鉄のおかげで俺も最初はぎこちなかったけどすぐ元に戻ることが出来た。あの告白が嘘みたいに、いつも通りの日常が続く。諦めないなんて言われたことも夢だったんじゃないかと思うくらいに、隣には虎鉄がいて、学校へ行って、部活があって。あれからすぐだった虎鉄の誕生日もちゃんと、親友の誕生日として素直に祝えた。
壊れることのなかった関係に安心した所為か、特におかしなこともない虎鉄の行動も相俟って、それから一ヶ月もする頃にはあの日のことなんてすっかり忘れてしまっていた。

結局その年は何事もなく実家で年明けを迎える。しかし虎鉄からの電話を受けていたので、カウントダウンから日付変更まで電波を通して虎鉄と迎えたと言ってもおかしくはない。土産を持って埼玉に帰れば、まだ正月休みだというのに真っ先に虎鉄からの連絡を貰った。

「あ、うん。そうそう。もうすぐ家」
『じゃ、5分くらいKa。長旅お疲れさん』
「飛行機でちょっとやけん。寝とった所為でぜーんぜん眠くなかー」

荷物を抱えて商店街を抜けた団地を歩きながら、携帯を持つ指とは逆の手に、きしきしと痛みを感じる。地元が楽しくてつい土産や名物を買い込んでしまった為、荷物に収まり切らなかった紙袋が指に食い込むのだ。携帯そのものも冷えた空気に影響されて、じわじわと俺の手から体温を奪う。それでも虎鉄との会話より手の痛みを優先する気にはならなかったので、そのまま歩いていくと気付けば見慣れた自宅の傍だった。
そういえば今虎鉄はどこにいるんだろうと疑問を持って口を開いた。が、言葉にはならなかった。

「あ、おかえり」

目の前と、耳の手前から同時に再生されて二重音声になる。数秒固まってしまったが、玄関の前でよいしょと立ち上がった虎鉄の姿を再認識して、携帯の通話を勝手に切った。もう一度顔を上げれば、にっこりと笑顔で歩み寄る単細胞。手の携帯を同じように閉じて仕舞うと、寒いから早く中に入れろと要求してきた。咄嗟にバンダナ頭をぱんと叩く。

「いてっ」
「…いつからここおったん?」
「Ahー…今もう7時Ka。二時間くらい前?途中コンビニで暇潰して…ぁだッ」
「風邪ひく!不審者!暇人!営業妨害!」
「たっ、いたたっ、ちょっ待…連打すんのやめて!」

飛行機に乗る際切った電源を最寄り駅に着くまで入れ忘れていて、やっと起動した携帯に虎鉄からの“今ドコ”メールが三通も入っていたのはこういうワケだったか。仕方のない男だ。帰りは夕方になるからと言っておけば。用事ならメールで済ませて、遊びなら明日来れば良いのに。

「まあまあ、とりあえず家に入りませんKa、ずっとここにいても風邪ひくだけですYo?」
「そん台詞、そっくりそんままお返しするとよ」

でもオレ合鍵持ってないし…とか宣う虎鉄に、じゃあ俺より早く来んな!と怒鳴りながらまた頭を叩く。唸る単細胞を無視して取り出した鍵でドアを開けると、重い荷物を玄関に置いた。一息ついて肩を回すと、後ろから頭を押さえた虎鉄が「おかえり」と笑いかけてきたので、少し考えた後「ただいま」と返してやった。

虎鉄は我が物顔で電源の入れてないこたつに居座り、せっせと片付けに動く俺を見ていた。途中「ンなの後にして休もうZe〜」とか、「オレ腹減った〜」とか鬱陶しいことこの上なかったので、虎鉄用にと買った土産物の饅頭を袋ごと投げ与えてみる。しっかりキャッチしたようで若干面白くなかったが、先程よりは静かになったから無視して作業を続行した。


「…猪里、猪里ぃ、猪里ってば」
「……何ね、もう」

数分後、また発動した虎鉄の「構って」に溜息吐いて返答してやる。見れば饅頭のゴミを三つ程テーブルに放置して、携帯を操作している姿が視界に入った。いつも何してるんだか知らないが、虎鉄はよくこうして携帯をいじっている。文字を打っている様子はないのでインターネットでもしてるんだろうか。俺は買ったものを床に広げて最後の荷物整理をしながら、だらだらした虎鉄の声に耳を傾けた。

「猪里ってSa〜」
「んー」
「九州で生まれ育って、中卒まであっちいたワケじゃんKa?」
「うん」

数種類ある明太子と生ラーメンを積み上げて、保存する場所ごとに分けながら相槌を打つ。いつだったか一度だけ話した記憶のある、唯一の俺の歴史。そんなこと言い出して何を話したいのだろうかと、次の言葉を待った。数秒間沈黙があって、思わず続きを聞き返しそうになった。

「彼女とかいたりした?」
「……はぁ?」

思わず手を止めて振り返る。虎鉄はまだ携帯の画面に視線を落としたままだ。ボタンを押す音が地味に響く。
――彼女なんていたわけがない。俺がそういうコトに鈍いのはよく知ってる筈だ。好きな子はいたのかどうか曖昧だし、当時は好きとか嫌いとかそんなこと考えもせずに、一緒にいて楽しいと思っていたくらいだったっけ。
返答を待っているらしい虎鉄に怪訝そうな声で「いない」と即答してから、俺に彼女なんかいたと思うかとか、お前が言うとなんかバカにされてるみたいだとか、ぶつぶつ文句を言う。それを乾いた笑いで返しながら、虎鉄はまだ携帯から目を離さない。そもそも何だってそんな質問したのか、虎鉄の考えていることはやっぱりよくわからない。虎鉄は一度だけ別に、と答えたが、数秒置いて「知りたかったから」と返答した。まだ、だらだらした口調ではあったけれど。

「オレ、猪里のこと何も知らないし。隠し事もされたくねぇNaぁ、あんまし。オレと知り合ってからの猪里はオレが誰より詳しいと思ってっけど、その前は本当なーんも知んないワケじゃん」

何を当たり前のことを。そりゃあそうだと相槌打ちかけて、そういえば確かに、俺の昔のこと話したのって全然なかったかもしれないと思った。虎鉄にというより、友達にそう話す機会もないだろう。それに俯いているように見える虎鉄がどこか寂しげで、なんとなく放っておけなくなる。こいつが一体どういう思考を持って俺の過去に辿り着いたのか想像もつかないけれど。
とりあえず目の前の食品を冷蔵庫に仕舞いに行って、まだ少し残った荷物整理を置いてこたつへ入った。電源入れればいいのに、と呟きながらスイッチを入れる。虎鉄にやった筈の饅頭を一つ引っ掴むと、顔を上げて少し驚いたようにこっちを見る虎鉄と目が合った。

「何ね、一つくらい良かやろ。他の包装開けるん面倒臭かとよ」
「…あ、いや、別にコレはいくつ食ったってイイんだけど」

なんとなくしどろもどろに答える虎鉄の言葉を真に受けて、伸ばした手であと二つ取った。あ、と不服そうに声を上げた虎鉄に、自分でいくつでもと言ったろと無言で睨む。少し目を反らされて、その間に開封した饅頭を一つ口に放り込んだ。俺が口を動かしている少しの間、虎鉄はそわそわして落ち着かないみたいにこっちを見てくる。

「荷物は?」
「ん…んー、…虎鉄が何や言いよるけん、後にする」

虎鉄の好きなあんこを飲み込むと、喉に張り付くような渇きを感じた。そういえば機内でお茶を飲んだきりだったなぁと思い出し、すぐ立ち上がって台所へ向かう。戸棚から茶葉の缶を取り出して、急須と二人分の湯のみを用意しながら、背中に降ってくる虎鉄の慌てたような声を聞いた。

「あ、でも、別にそんな」
「話しちゃーよ、そげに対した歴史持っとらんし、平凡な人生やけ。まあ家族構成とか中学の思い出とか…そんなんしか話すこつなかけんね、別に面白くなかよ」
「…マジ?」

水を張った薬缶を火にかけて、振り返ると身を乗り出した虎鉄が期待の目で見ていた。驚き半分といった様子だ。俺が自分のことを話すのがそんなに意外なんだろうか。「そん代わり、お前んこつも話せよ」と笑ってやったら、少しだけ躊躇した後こくこくと頷いた。俺の過去なんて知ってどうするんだろうとかも考えたけど、知りたいなら隠すこともないし、適当に構えていた。大人しく炬燵に戻った虎鉄が両肘ついて、額に手を当てる。

「…あー、嬉しい」

小さな声で呟かれた一言を耳で拾ってしまった時、どうしてそんなに知りたがるのか疑問に思っていたことの答えを見付けてしまった気がした。僅かに目を開く。す、と息が止まる。隣で水が沸騰する音を聞きながら、もうあれは一時の気の迷い、きっと冗談だったんだと思うことにしていた虎鉄の告白の言葉が、瞬間的な早さで脳裏にフラッシュバックしていた。



08/02/--