ほととぎす
二人ともヤンデレ、どす暗い



もう嫌だって散々泣いて喚いて、暴れて、殴って、引っ掻いて、逃げることも叶わず引っ張られた腕をそのままに睨み付けた夜だった。
何度も言葉の合間に好きだ好きだと零しながら肩を押して、その度に目を鋭くする相手を遠ざけようとする自分が矛盾していることに気付いていながら、首を振る。否定の言葉は考えなしに投げつけて、ボキャブラリーの少なさから何度も同じことを言ったような気がする。
「きらい」だと言ったつもりで「すき」だと叫んでいたことに自覚はなかった。

考えてみればひどく簡単で滑稽でくだらないことなのかもしれない。俺がどんなに怒鳴ったって拗ねたって治らない軟派癖はこれまで耳が腐る程「おまえが好きだから」と言い包められて、馬鹿バカしいと呆れ果ててもう自分自身慣れているつもりだったのだ。
どうせつまらない言い訳だとわかっていたし、同時に自分が泣いて引き止めた後にいつも優しく抱き締めてくれる腕が欲しいからでもあったりする。きっと俺がもっと、虎鉄の言うように素直に真っ直ぐになってしまえたら、こんな面倒なことをしないでも、時が止まっても苦痛に思えないくらいの暖かさなんて、容易く手に入れられただろう。なのに強情張りな自分の性格が何度も嫌いだと思った。けど、そうして俺が謝ると「かまわない」と笑ってくれたから肩の力が抜けた。
あいつはいつだって優しかった。信じろと言われれば信じられたし、そうでなくとも無意識のうちに何もかも許してしまったつもりでいた。
裏切られた気分に陥るのだ。いつも、いつも、あんなに真っ直ぐ俺の方ばかり見ているくせに、勿論そんなの今更だし想い始めた当初から今までずっと、それが変わることはなかったじゃないか。なのに何度誤魔化されても納得出来ない。頭を抱えて悩んだって、あの顔で真剣に謝られて真っ向から告白されれば許していた。
それでも、そうだ。「信じて」と抱き締められて俺がそれを許したとしても、事実は変わらなかった。虎鉄が俺を不安にさせるという現実は何ひとつ変わってはいないのだ。溜まりに溜まったものが爆発したように俺は虎鉄を拒絶した。
今度こそ、今度こそは騙されてやらないと、本当は、薄い薄い皮を捲れば現れる本心は騙して欲しいと願っているのに。

本音なのか、破られるのを待っているだけの嘘なのか、最早自分ではわからなくなっていた。どこからだったか記憶にないのだけれど、確かに途中から深く考えるのをやめて、ただ我武者羅に怒鳴りながら逃げようとしていた筈だ。実際逃げているつもりで結局は自分から求めていたのだけど、どっちにしろ逃れようがなかった。
背中に当たるのは数年使い古された洗い立てのシーツだったし、目前に迫る獣の眼。手足で捕えて眼で縛るやり方には未だ弱いままだった。わんわん泣きながらされるがままに受け入れて、いつの間にか事は過ぎた後だった。



「もし、オレが本当に猪里を嫌いになって、本当に猪里を一人にしちまったら、その時はオレのこと殺しちゃってYo。躊躇わないで、いつもオレを殴る時みたいに思いっきりSa。」

動けない体を打って変わって優しく優しく撫でられながら聞いた台詞は、暫くの間、脳裏で反響していた。聞き返すことも出来ないくらい驚いていた。というより、呆気にとられていた。あれ程騒いで枯れた声も出さず、火の消えたように幾分か落ち着いた呼吸で大人しく腕の中に納まっていたのに、唐突に聞こえた軽々しい言葉に顔を上げることも出来なかった。
特に真剣な声色でもなく、冗談みたいな可笑しさを含んでいるかといってもそうは思えなかった。虎鉄の心臓がいつもより少し速く鼓動していたからかもしれない。同様に、俺もそうだった。

「今日みたいに急にヒステリー起こされて散々引っ掻かれて。またこうやって落ちつけて。数えてないけど、数えらんないくらい、オレ、猪里のこと不安にしたじゃん。もしかしたら、…っつーか絶対また同じこと繰り返すから、オレ。何度も言うけど素直になって貰いたかったり、こっち見て欲しかったりで、だからすんNo。バカみてーだと思うけど、実際オレがああいうことすれば猪里こっち見てくれんじゃん。」

頷きもせずに呆然と一点を見つめたまま、虎鉄の声を聞いた。淡々と、感情のこもらない声で呟くように。それが怖くて仕方なくて、それでも虎鉄の言葉を遮ることもしないで。動けなかったのが正しい。単調に続けられる台詞をするすると聞き流しながらも、頭に浮かびこびり付いて離れない、繰り返される音声は「ころして」のままだった。

「何つーか。信じてってのはもう言い飽きたし聞き飽きてると思うんDa。だから、また同じこと言おうとは思わない。けど、オレの癖が確実に治るなんて思えないし、猪里が不安なのって多分、その、オレが猪里を見なくなるかもしんないってコトだRo。だったら、もう信じて欲しいとかグダグダ言わないから、猪里が本気で信じられなくなったらいつでもいいから、オレのこと殺しちゃって。猪里を好きでいられない自分なんて生きてたってしゃーねぇしYo。」

言葉が区切られる。一先ず、虎鉄の言いたいことは一通り吐き終わったらしい。脳は情報を上手く組み込まなくて、一文字一文字解読していくには時間がかかった。ただ伝わったことは、要約して、考えれば、虎鉄が俺を捨てそうになったら、俺が虎鉄を、殺す。

「…………………、なに、言っとぉの?」

長い長い間があった。そう感じたのは俺だけなのかもしれないが、虎鉄が黙ってからきっと、少なくとも5分くらいは無言の時間があったんだろう。俺が何百秒もかけて苦労して搾り出したのは、たったそれだけの言葉だった。あれだけ小学生みたいな暴言を言って騒いだくせに、声が出なくなったみたいに何も言えない。だって、虎鉄がいなくなるってことだ。どう考えても、普通の反応は出来そうになかった。益してや、俺が手にかけるだなんて。一言、冗談と笑ってやれば良かったのだろうか。ひきつった笑顔を浮かべようとしてみても出来ないのだ。

「刃物はさすがに怖いからSa。怪我したら危ないもんNa。麻薬でも毒でも、内側から死ねる程度のモンなら持ってるから。薬だって一度に大量に飲んだら死ぬって言うだRo?だから猪里、オレが殺さないでくれとかのたまっても、手加減しないでいいYo」
「虎鉄は……俺を、捨てるん?」
「…じゃなくて、もしもの話だRo。オレだって死にたくない。でも、猪里を愛せないオレは死にたいくらい嫌い。だから、オレが猪里を捨てるかもしれないって思うんなら、そういうことにしとこうZe。自分じゃきっと死ねないから。猪里が不安がるから思いついたんだRo。つーか、オレからのお願いDa。オレが離れるイコール有り得ないことが万が一でも現実になったとしたら、その時は…」
「だ…黙って」

か細い声しか出ないのに、無理矢理絞り出そうとした。頭の中が混乱してどうにかなりそうだ。聞き流してしまえばいいことなのに、聞きたくないと元を止めるしか方法がない。じわじわと涙が出そうになって、拳に力を込めたら手元のシーツに皺が出来た。それくらい、辛いのだ。虎鉄がいなくなることがどんなに辛いか。自分が死ぬことよりも恐れている。

「違う、違う、そげんやったらもう俺煩くせんし、我が侭言わんし、俺の所為でそげんこつ言うんやったら虎鉄、謝るけん俺、…そげんこつ、もう言わんでよ」

ちゃんと信じているからと身を竦めてつんとする鼻を啜る。腰に回っていた腕が、手の平が髪を撫でて、強く引き寄せられると強く強く抱き締められて。今虎鉄がこうして隣にいてくれるって言うんなら、縋り付いて離さない。不安にはなるしこうして一緒にいたところでいつか終わりは来ると決まっているのだし、覚悟は出来ているといえば嘘になるけれど、それでも、また自分がほんの少し我慢をしてほんの少し素直になれば、もう虎鉄の口からあんな酷い言葉を聞くことはなくなる。俺の所為でそんなことを言わせたんだ。

「ごめんな、猪里。」

それから俺が虎鉄の癖について取り乱すことはなくなったし、虎鉄も二度とその話を口に出すことはなかった。


07/12/17