クオリア
オフの幼馴染み様より頂戴致しました。
先に言いますほんと愛してるありがとう…



日は虎口より昇り出で。帝釈天を真芯に通し、うすくれないの朝もやは下町情緒も芳しき。
とび職三代続いたる江戸っ子気質は町の華、生まれも育ちも深川の気風よろしき家一軒。口はでかいが腹はまっさら、五月の鯉の吹流しなる伊達男。目にさえざえと紺締めの粋な羽織を打ちかけて、わっと元気な産声に、喜色総出で駆けつけたのは彼の父。玉のごときや初の子に涙流して云うことは、なんと利発な目元かな。果ては学者か大統領、欲目も高くうち笑う、えくぼを指するは長男坊。涙も汗もいずれ泡、一度に飲み干しからりと笑う でかい男になれよとの、大おやごころに親心。「大河」とつけたるその気風、やまとおのこは成りがたし。

・・・さて、十七年。

そんな家系にこの男、軟派で通った大の遊蕩児が育ったのは、数奇なことではあった。



「N〜mmmッ いい朝だZe〜♪」

むきだしの背中をスポーツタオルでばしっと打ち、のびのびと朝の息吹を吸う。精悍な肩口はしゅっと盛り上がり、乾いたタオルのひと鞭でぽっと赤く染まった。小筆を走らせたような細眉に、くっきりと切れ上がった目元は鷲のよう。ヤクルトの銀紙にちびりと二つ歯を立てて、ちゅっと吸い込む稚気な顔に朝の陽射しが燦々とふりそそぐ。日課の乾布摩擦を終えた彼はおおきくのびをした。

「おい大河!!!」

雷の如き大喝にびくりと肩をすくめ、きょろきょろ目を動かして、わざとらしくぴゅうっと口笛を吹く。

「んだよ朝っぱらから、でかい声張り上げると腰に響くZe?」
「じゃかあしい!てめえまた安井さんとこな嬢ちゃんにちょっかい出しやがったな!」
「安井さん?」

いたく怒気を持った父の声に、彼はすこし怪訝な表情をした。目蓋の下でぐるっと記憶を探り、ようやく思い当たって、「Aっ」と声を上げる。

「Ahー、こないだの土曜日Ka。」

青筋立てて肩をぶるぶる震わせる父の顔をちらと見て、歌うようにそれを語る。

「それは蜜よりも甘い、夢のような夜だった・・・ 野暮天オヤジに聞かせるにゃ及ばねえYo」

うっとりと目を閉じて、気障な仕草で鼻に中指を伝わせる。
「安井さんとこの子」は渋谷HMVでばったり会った虎鉄を買い物に付き合わせカラオケ代を払わせてクラブでひとしきり踊った後、健康的に8時には家に帰っていた。

「馬鹿野郎!!!」
「ADaッ!!」

ぼかんと痛烈な拳固を食らった彼は目を剥いてかがみこみ、ぱっくり口を開ける。
今度こそ、特大級の雷が落ちてきた。

「てめえのスケベ心で恥かかされるこっちの身にもなってみろいッ!」
「横暴Da!自由恋愛の弾圧Daッ!!!」

ぎりっと額に皺を立て烈火のごとく怒る父に虎鉄は涙目で立ち上がり、軒先にかけたタンクトップを引ったくる。ばさっと乱暴に腕を通して、外靴に履き替えた。

「あっ おい、どこ行くんだ!」
「ランニングDa!これ以上ごうつくジジイの説教なんざ聞きたかNe-Ya!」

ポケットから布を取り出し、ぐいっと額を締めあげる。ねじり鉢巻とは似ても似つかぬ現代風の野趣な模様だ。彼は山猫のような敏捷さでさっと垣根をくぐり抜け、ちょっと口角を上げると、鉄砲玉のように戸外へ飛び出していった。

「ったく・・・」

軽妙洒脱、鯉のように軽い若者の姿を見送って、男はやれやれと息をついた。矢なみのように馳せる後姿が陽炎に揺られ、ぐんぐん遠ざかっていく。遠く、海原をながめるように、深い皺の刻まれた片方の目を彼はまぶしく眇めた。若々しく跳ねる影はもう指先ほどに縮み、地平線に没してほとんど見えなくなっていた。

「誰に似たんだか。」

ふと目を上げればみずいろの空に清風が吹きぬける。
からりと晴れた初夏の太陽が、放られたタオルの白をきいんと熱く照らしだしていた。







「Yo-Ho!一年キッズ達!ランチタイムはFUNNYかい?」

大げさな身ぶりで現われた人影に、猿野たちは意外そうに振り返った。
そこには虎柄のナプキンに包まれた弁当箱をぶら下げ、そわそわとたたずむ先輩の姿があった。警戒色キツイっすよ、とか遮断機カラー(笑)とか口の悪い後輩に散々言われた代物だが、「オレらしいビビッドさDa」と本人お気に入りの逸品である。突然の来訪者に兎丸はポテチへ伸ばしかけた手をとめ、不思議そうに司馬と顔を見合わせた。どけどけ、と長い指で円座をかきわけ、押しのけられた沢松がうおっと声を上げる。強引に隣に座りこんだ虎鉄がニッと歯を見せた。
「なんすかキザトラ先輩、一年の教室にわざわざ一人で」
「シッ とうとうクラスに居場所なくなったんだよ空気読め!」
「いや、アレがばれて査察が入ったのかもしれないっすよ」
「センパイ強制送還されちゃうの・・・?」
「勝手に人の前科増やしてんじゃNeeeeeッ!!!」
全力でツッコミをいれると猿野と子津がソロバンを弾き点数審議をはじめる。『58点』の札に血管をピキピキいわせつつ、そのまま後輩の昼休みにまざるのも気まずいので虎鉄は仕方なく事情説明にかかる。

「実はNa・・・」


***


「よー猪里、メシ食おうZeー!」

学食でからあげパンとふわとろプリンを購入した虎鉄は教室に入るなりくるっとターンして片手を上げた。なにごともない、いつものお昼の光景だ。

「お、虎鉄。今は繁忙期やけん話しかけんとき」
「まーたまた、猪里らしくないZe?そんなインテリメガネに白衣に顕微鏡・・・Ni・・・!?」

虎鉄が目を剥いた先には銀縁の紳士眼鏡をかけ白衣を羽織った猪里が、神妙な顔つきで机上に実験器具を広げていた。

「ど・・・どうしたんだYo猪里Kun、その丸眼鏡Ha」
「どうしたもこうしたもなか。繁忙期っち言ったとよ」
「Ha、繁忙期?」

おぉ、と頷いた猪里はクイッと銀縁を押し上げ、手元の図面に視線を落とす。見ると、彼は老人が使うような臙脂色の帳面に「リン酸10g・・・」と鉛筆を走らせていた。

「あのー、これHa?」
「見て分からんか。肥料の配合表たい」

わっかんねーYoッ!と叫びたいのをこらえつつ、汗をうかべながら話を続けようと試みる。

「ひ・・・肥料 あーっアレNaー!こないだ言ってたもんNa!でも至高の猪里スペシャルなら先月完成したって言ってただRo?」
「あの配合は取締法で規制されたけん、高度化成もんは海外にしか無かと。環太平洋協定もあの通りやし、世知辛い世の中ったい」
「Oh・・・」

実際、オウ・・・しか言えなかった。ハラボゥル・・・!でもよかったかもしれないがそんなことはどうでもいい。猪里と、会話が、できない。虎鉄はいま、かつてない窮地に立たされていた。
言葉のキャッチボールはOne-Way-Go、理系モードの猪里とかはじめてDa、とかそもそも数学苦手じゃねーのかYo、とかぐるぐる混乱しながら頭を抱える。どうすればいい?どうすれBa、いやむしろどうすれVa、

「なあ虎鉄」

救いの手、猪里からの言葉にぱっと高速で顔をあげる。べつにそんなよろこんでないZe?という顔をつくるのも忘れない。
「なんDaい?」
「おまえは軟派者ばってん、いざっちゅー時は頼りになる男やと思っとう」
突然の猪里のことばに、虎鉄はすこし目をみひらく。
「必要とあらば危険もかえりみない、ふとか根性もある。」
虎鉄の肩に手を置き、親身なまなざしでじっと見つめる。やわらかな視線に胸がふっと熱くなる。なんだYo急に、と照れくさそうに鼻頭をこすり、片目を気障に閉じて次の言葉を待つ。
「法はな、人のつくるもんったい」
「? ・・・そうだNa、確かに」
「ばってん、作物も人がつくるもんたい。人と自然。そこにいいも悪いもなか。」
「ああ・・・」
意図がつかめず首を傾げる。怪訝そうな虎鉄の顔を覗きこみ、彼はにこりと笑んだ。

「おまえなら、『アレ』の入手ルートで硝酸アンモニウムが手に入るんやなかと?」

太陽のような笑顔につられた虎鉄の微笑がぴしっと硬直した。

「だから人をジャンキー扱いすんじゃNeeeeeeッ!!!」
「あげんこつ得意気にキメときながら、法の網もダウンXアッパーできんのかッ!!!」
「自分で言ってる意味わかってRu!?」

目を吊り上げた猪里に猛然と肩を揺さぶられ、ガクガク傾ぐ頭から血が失せる。虎鉄は朦朧としながら白衣のりの涼やかな目元と、野良仕事で鍛えた手の妙を思っていた。
「どーしてもダメか?」
「オレが社会の壁に立ち向かうのはHIPHOPだけDa」
「絶対にダメ?」
「はい」
こくんと頷く子犬のような表情に、猪里ははあと息をついて胸ぐらを離した。うってかわって落胆した様子に虎鉄はすこし眉を下げ、丸い背中をぽんぽん叩いてやる。

「まあ、その。うまくいかねぇこともあるSa。猪里レシピがダメなら市販の物でいいじゃねえKa。人手が足りねえんなら手伝ってやるからYoー」
「虎鉄・・・」

虎鉄の人懐っこい声に、猪里もふっと表情をやわらげた。

「いつもの猪里みたいに、ニコーッて笑えYo」
「・・・まあ、くよくよしても仕方なかね。」

口の端をひっぱって歯を見せる虎鉄に、猪里は軽くふきだしながら応じた。虎鉄はしてやったりという顔でウインクする。
外しちまえYo、とのばした手で眼鏡のブリッジを引っ張ると、「わわっ」と慌てた声をあげ、きまりわるそうに赤らむ顔がレンズの下から現れた。
よかった、いつもの猪里に戻ったNa。
露わになった、透明感のある眼を見て虎鉄がにんまり口を曲げる。
こうなってしまえばこっちのもんだ。彼は安堵した。

「そうそう。まだ合法のストックも残ってんだRo?テロ対策法に引っかからない程度の」
「いや、あれはまだボカシが済んどらん。」

ぱっと目をひらき、虎鉄の表情は再び強張った。BOKASHI?

「・・・そっ そうDa猪里!昨日部屋ん中漁ってたらバトルドーム見つけたんだけどSa、見たら玉の代わりにレゴの頭ブチ抜いたヤツが大量にあって思わずオレ・・・」
「罹病性の高いもんは今どきっちゃ間に合わんけん」
「A、あのー?」
「二毛ならまだしも、今期のワッカ症はミスト排でも抑えきらんとよ。」
「もしもし?」
「やっぱアメリカバイソンの頭骨が足らんね、週末はUSに飛ばな。そうだ虎鉄!本音の本音で答えとき。おまえEPAはどげん思っと!?」
「お邪魔しましTaー!!!」
虎鉄はシーズン始まって以来の俊足で教室を飛び出した。
行く先も分からぬまま明日に向かって走る雲は自由になれた気がした17の夜だった。

「・・・と、いうわけで」

ガチモードの猪里から脱出した虎鉄が人差し指を立てる。

「今の猪里は怖ぇーんDa。」
「そ そうすか・・・」

猿野達は言葉を失くして虎鉄の話を聞き流した。

「『聞き流した』って何だYoッ!オレの気持ちを推し量れ!!!」
「あーうるせー!!」

耳に指を突っ込みながら涙目の虎鉄をシャドウボクシングで避ける。

「あの、それで一年生の教室に来たんすか?」
「ボクたちとお弁当食べるために?」
「・・・まあ、そうDa」

頬を赤らめ、持っていた弁当箱をちいさく振る。

ヒソヒソ・・・
やだわ奥さん・・・かわいそうよ
虎鉄さんとこのタァちゃんでしょう・・・?
去年も通信簿に「もっとみんなに心を開いてほしいナ」って書かれたそうじゃない・・・

「さっきから聞こえてんZoキチモンキー!!!」

彼は沢松を盾に飛んできたモーニングスターを回避した。はは・・・と顔をひきつらせながら子津が虎鉄に向き直る。

「ま、まあそういうわけなら大変っすね。ボクたちはべつに構わないんで、先輩さえよければゆっくりしてってくださいっす」
「ありがとNa!この面子じゃおまえだけが良心だZe」
「ひっどーい!その言い方差別だよねぇ」

兎丸は口をもぐもぐ動かしながら司馬を見上げた。

「お?おまえ何食べてんだYo」
「これ?苺大福ー♪」

にぱっと頬を緩めて兎丸はかじりかけの断面を見せた。

「司馬くん最近料理にはまってて、いま和菓子に挑戦してるんだって!」

話題がおよんだ瞬間彼はぱっと顔を赤らめ、恥ずかしそうに下を向いた。

「苺☆大福だTo・・・!?」

八重歯の隙から涎がすっと溢れ、ぐわっと司馬に顔を寄せる。

「くれッ!全身全霊Deくれ!傷ついたMyHeartを甘ぁいそいつで存分Niモチモチさせてくれッ!」
「ちょっと、司馬くん怯えてるよっ!」

血走った虎鉄の目にぶるぶる震える司馬を兎丸が庇う。司馬はぎゅっとヘッドホンを耳に押し当て鞄を探り、おずおずとタッパーを差し出した。蓋を取ってあらわれた真っ白な地肌の群れに、虎鉄は目を輝かせた。

「Yoッ 大将!粋だぜ司馬Kun!」

もち肌を指でつまんでもぐっと頬を緩ませる。兎丸が呆れたように見ているのも構わず幸せそうに顔を紅潮させ、鋭い目元がやわらいだ。あんこの香りにうっとりと苺を噛み潰した瞬間、

ずきり。

ぱっと目をみひらいて 大きなかたまりをぐっと飲み下した。
鳩が豆鉄砲を食らったような虎鉄の顔は、こころなしか青ざめている。

「どうしたっすか?」
「マズいなんて言ったら承知しないよ〜」

口を尖らせた兎丸の横で、司馬があわあわと取りなすように手を動かす。

「I、いや・・・」

青い顔をしたまま、もむもむと口を動かして、口の中を舌で撫でる。

「う、美味いZe司馬!ベラボーにNa!」

お世辞じゃない、事実最高に美味かった。みずみずしい苺の香気に、しっとりと甘い小豆のやわらかな餅生地。虎鉄がチューボーですよ!に出たら迷わず五つ星を出してたとこだ。彼が顔をこわばらせたのは別の理由。

「ほんとかぁ?ケツにバッカルコーンでも挟んだような顔して、やせ我慢は体に毒ですぜ」
「うるへー・・・」

猿野の暴言にツッコむ余裕もなく、ぐいっとペットボトルの茶を干した。

「もう、せっかくくれたのに!・・・心配しないで、司馬くんの大福すっごいおいしかったよ!」

兎丸の笑顔にこくんと頷いて、ふわっとくちびるを円くする。

「俺もうまかったぜ?どーせマリファナ先輩がギムネマ茶でもボトル飲みしたんだろ」
「1.5ℓギムネマっすか!?」
「読者の方々、ギムネマわかるのでしょうか・・・」
「なんだいたのか辰羅川。」
「おりましたよずっとさっきから!!!」
「Ha、HaHaHa・・・」

がやがや騒がしい後輩に仏のごとき微笑を向けながら、虎鉄は奥歯の痺れをじっと耐え忍んでいた。





ロマンスは機を選んじゃいられない。

今日はお肌の調子がどうだとか、財布がさみしいから賭けはムリとかHey,ボーイズ!そんな弱気な根性で美女跋扈する戦場へむかおうなど笑止千万、軟弱至極はなはだしい。
めくるめく摩天楼日がのぼり沈む地平線のその果て、XX遺伝子を持つ『女』の棲む場所すべてが虎鉄の占める愛の森。跳びだす気まぐれバンビ達を恋狩人が射抜くには、昼夜問わずの心がまえが必要だ。
くだらねえ迷いでGALとの出逢いを逃したとあっちゃあナンパ男の名が廃る。

たとえそこが、大河にとって最凶のデッドフィールドであろうとも。


白と青に統一された、異様な清潔感の支配する空間。
消毒液の匂い 流麗なクラシックのメロディが、地上の楽園のごとき平安をあらわして薄荷の香りにとけてゆく。

「N、mmm・・・」

キシリトールのガムをもちゃくちゃ噛んで、歪めた唇の間からぷっと膨らませる。小ぶりなアイスグリーンの風船はすぐ穴が空いてへにゃっとしぼんだ。

「お待たせしましたー、どうぞ。」
「あっ はい!!!」

バネで弾かれたように立ち上がり、直立不動で静止する。

「あ、あの こちらへ。」

そのまま銅像のように固まっていた虎鉄を、受付の女性が手でさしまねいた。
清潔感のある爪に薄くひかれたトップコートがわずかな艶をそえている。虎鉄はちらりとその手つきを見て、上の空で足を動かした。

「初診ですか?」
「A、えーっと、中学ん時来たはず、です」
「診療カードはございますか?」
「あー、忘れましTa。保険証はあるんすけDo・・・」
「わかりました。・・・今日はどうなさいましたか?」
「あの、気のせいかもしんないんですけDo、ちょっと奥歯Ga」

言いかけた瞬間、みゅいーんと奥で金属音が響いた。ギクゥッ!と背をしならせ、90cmほど直角跳びをしシャチホコのように仰のいた虎鉄の姿に、女性は目を剥いた。

「あ、あの・・・!?」
「・・・フゥッ!!!」

滝のように汗を流して腹の底から息を吐き、土気色の顔でスマイルをつくる。

「もちろんベイビー、君とのペパーミントな出逢いのためSa☆」

ぴきゅん!と出るはずの星が今回はへろん、としか出なかった。彼女はあからさまに蔑むような目をして保険証をすっと突き返した。駄目押しのように奥でギューンとドリルが鳴り響き、虎鉄の気力はあっけなく砕け散った。

「失礼しましTa・・・」

彼はがっくりとうなだれて、頬を押さえながらすごすごと帰っていった。



「おう、早かったじゃねえか。どうだ、虫歯か?」

朝刊に目を通しながら、父が背中越しに声をかけた。

「えっ うん、なんの話?」

ちょこんと小首をかしげ、KOTEMIウインクをする。

「何とぼけてんだ!てめえで歯医者行くっつったんじゃねえか」

ひらいた目をいぶかしげに細め、こっちへ向きなおる。強い視線に汗が湧き、大河はそらとぼけた顔で壁のシミに目を移した。

「あーっ 歯医者!うん、あれNe。それNe。」


「あれだよNa」


「マスクしてる女医さんって目元がキレーだよNa」

ぱかんと痛快な音が居間に響く。

「おめえはその歳で歯医者も満足に行けねえのかぁッ!」
「行ってねえとは一言も言ってねーShi!痛てーShiッ!」
「行って治療受けてきたのか」
「そ それHa・・・」

はああと嵐のような溜め息をついて、目元をぐっと押さえる。

「しょうがねえ、おれが一緒に行ってやる。」
「親父Ga!?いーよみっともねえそんなもん勘弁Da!」

途端に父はばしっと膝を打ち、畳を突いて仁王立ちになった。

「だったらてめえでなんとかしろ!」

ぐわっとまなこを吊り上げて、荒げた息で鷲っ鼻を膨らます。大河は思わずひるみ、背を正した。

「へっぴり腰で門も叩けねえなら友達でもなんでも、ツレ探して行ってこいッ!!」

恐い顔でおどかすように覗きこみ、息子の顔にびしっと指を突きつける。

「つ、ツレぇ・・・!?」

虎鉄は顎に手をあてたまま、あんぐり口をあけた。






「大体オヤジの言ってんのはアレだRoー?横に座って『大丈夫痛くないあのギュイーンはナナハンのエンジン音だ、口あけてボーッとしてりゃすぐ終わるYo』って傍で手握っててくれる奴だRo?そんな気のきいた奴いるかNe・・・」

虎鉄はうーんと唸って目を瞑る。雲ひとつないあおぞらに真っ白な太陽がぎらりと燃えている。眩しそうに日光をまぶたに受ける姿は、あくびする猫のようだ。

「先輩達の手を煩わせるわけにゃいかねえよNa・・・恥ずかしいShi」

カメラを接写モードに、ギラリと目を光らせた梅星がぼわんと浮かぶ。

「報道部の連中は完全アウツだとしTe」

自分の想像にげんなりと口を尖らせる。

「・・・あいつは、Na」

なにかを想った虎鉄の表情が、ほんのすこしだけ蔭った。透明な壁を自分の前に立てているような、すこしだけさみしい顔をして、彼は首を振った。まあいいSa。候補は幾らでもいる。
虎鉄はその場に立ち止まり、腕組みをして道連れとなる後輩の姿を思い浮かべた。

『もちろんいいっすよ!あ・・・すんません、あともう200球投げてからでいいすか?そんで家の手伝いがてら常連のお客様にご挨拶してお中元の発注済ませて公会堂にチラシ貼ってからでもいいっすかね?』
「頼みづれぇNa!」

『はあ、それはテリブルですね・・・いいですよ、ご一緒しましょう。それにしても虎鉄先輩が虫歯とは、鬼の霍乱とは言ったものですね。犬飼くんも小学生の頃はイチゴ味が好きだったのですが、私が完全無添加の歯磨き粉しか受け付けないもので旅先ではよく迷惑をかけました・・・あ、ご存知ですか?正しい歯磨きの方法とは意外に知られてなくて、毛先をズブッと歯茎に押し込み1cmほどの間隔で左右にゴッシャゴッシャと咥内に鉄の味が広がるまで・・・』
「うるSai。長い。」

『一人じゃダメなの?カワイイ・・・いいよ、明美が一緒に行ってあげるv ていうかアタイが掘削してあげるv』
「論外Daッ!!!」

『・・・・・・ウス』
「距離感に困る」

『・・・・・・(オロオロ』
「・・・静かすぎて向かねえKa」

『えーっ!センパイ歯医者怖いのー!?』
「怖えーんだYoッ!悪りぃかYoッ!!!!」
見えない相手のツッコミ六連発にぜえぜえ息を切らし、額の汗をぬぐった。こうなるとNa・・・

「・・・やっぱあいつKa」

家族を除いて虎鉄が最も近しいと言ってよい存在。
彼が深い信頼を置きながら、その少年に助力を躊躇うのは、理由があった。




「現代文化にもちったあ興味持とうZe、猪里?」

なんの変哲もないいつもの部活休みの帰り道。虎鉄の薄い唇が弧を描き、にやっと悪戯っぽく曲げられる。
機敏に背後へ回った彼は猪里の鼻筋に手をあて、中指で額髪をさらっと掻きあげた。まるで髪飾りでもつけるようなしぐさで、素早くヘッドホンを被せる。

「うわぁっ!?」

襲ってきた爆音に猪里は思わず眉をゆがめてヘッドホンを払いのけた。
虎鉄はくくっと笑って、襟足にひっかかったそれを耳に戻してやる。

「KNIGHT SLASHERSの『SCREAM』Da。フロウが滅茶苦茶カッケーんだよNa」

虎鉄が両手で包みこむように押えると猪里の鼓膜は獣めいた咆哮と鋼をへし折るような金属音で覆われ、ひっと叫び声を上げた。

「なんやねこの激しいお経!?」
「お経はねぇZe猪里ちゃん!!」

笑みをうかべていた虎鉄は愕然として猪里の肩をがしっと掴んだ。

「お経やなかったら呪文か!!・・・うわっ こげん乱暴な言葉遣いして、親御さん悲しみよんしゃー」
「いや、そうマジに捉えるなYo。こいつはイロニーDa。過激なリリックで聞く奴のハートに訴え、問題を浮き上がらせるっつーNo?」

ラップと和讃を脳内でリミックスする猪里にカルチャーショックを受けつつ、得意気に笑んで大好きな音楽の解説をする。

「社会の矛盾へ鋭く切り込む、言葉のナイフで戦うのSa」
「戦うちゅーて、そげん悪そうな格好する必要なか。」

猪里は丸い瞳を彼に向け、奇異そうに見つめた。あー、と虎鉄は唇を結んで頭を掻く。

「威圧ってか、フリも大事なんだYo。ワイルドなカッコすりゃ気持ちも大きくなんだRo?いまのオレならなんでも出来るZe!ってSa」

猪里は首を振った。

「そげなもん、ほんとの強さじゃなか。」

どんと胸を衝かれた気がした。冷たさはないが、予想以上に断固とした響きがせまった。虎鉄はすこし口を曲げ、猪里のつやのある澄んだ瞳をじっと見た。

・・・時々、こういうことがあるんだよNa。

怒りは感じない。かわりに、胸のうちをのぼってくる微かな寂しさ。
ほかの人間に言われたらノリ悪ぃNa、と軽く舌打ちして終わらせるところを、猪里のこういうまじめな瞳を向けられると。

「・・・まあ、価値観の相違ってやつKa?オレは形から入るのもアリだと思うZe、最初から内外ともに凄え奴なんていねえだRo」

ふと、脳裏に懐かしい顔が浮かんだ。今は全国ツアーの真っ最中、女の子達に揉まれて困ったようにはにかんだ笑顔をみせているだろうか。

「自分の弱ぇとことか、隠しておきたいことも男にゃあるんDa」
「それは分かっとう。ばってん、肩肘張って自然体でいられんような『フリ』続けてたら、疲れるだけばい」

痛いことを言われた。少なからず動揺して、焦る自分を感じる。
うまい言葉をかえそうとするが、こういうときの虎鉄はひどくまじめだった。

「なんつーかな・・・違えんだYo」

違う。そう叫んでいるものが自分のなかにあるから、実際違うのだろう。でも猪里の言うことは確かに虎鉄の弱点を射ていた。
つれえNa。なんだろう、ただ音楽の話をしているだけなのに。猪里に認められないのが、寂寞感でこころをいっぱいにする。なにげない、ほんとうの本心から出た猪里の正直なひとことが胸の核心をえぐって、優しく慰撫する こんなにも近いのに、隔たっている。虎鉄のうすあかい瞳に、褪せたひかりがのぼった。
振り返ると猪里はいつものあの穏やかな顔をして、ゆるやかな ほほえみに似た淡い目つきをしていた。
虎鉄はためいきをついた。
猪里は鷹揚だ。
どんな奇抜なことを言われても、若干の抵抗を見せつつ、「そんなもんかねえ」と最後にはあっさり受容する。のんびりと、あのゆりかごみたいな柔らかな音色で微笑する。が、それに気をよくして深入りすると思いがけないところでかつん、と石にぶつかる。今みたいに、さらりと虎鉄の考えを否定したりする。
こういうことがたまにあって、ほとんどはそんなこともなくて、虎鉄と猪里は気さくな関係を続けていた。それでも、確かにあるのだ。猪里に向けられた視線に、違うんだ!と叫びたくなるような瞬間が。
虎鉄はいま、頬のしんしんした痺れに耐えながら、それでも自分のそばに座る相手が猪里しかいないことを痛感していた。他の人間ではあの、あやすような 背中をばしっと叩かれるようなあの心強さは、得られない。
猪里ならきっと、あのふかふかした手で虎鉄の手をしっかり握り、こころを落ち着けてくれるだろう。
それでも。
ふだん剛毅を吹かせている自分が、情けなくも――よりによって猪里の前で、小学生でも恥じて躊躇うような恐怖を口にしたら。
それはプライドが許さなかった。まして「一緒に来てほしい」など。

虎鉄は重い溜め息を吐いて考えをめぐらせた。

「どうすっかNa・・・」







***


「・・・お?」

ふんふんふーん♪とのび太(旧)みたいな鼻歌を歌い、手足を一緒に跳ね上げスキップしていた猿野は空中マリオの格好で静止し、くるっと横に顔を向けた。視線の先、古ビルの隙にいわくありげな空間を発見し、ググッと顔を突っ込む。一息吸って軽く咳き込み、顔をしかめた。
暗い。埃っぽい。狭いコンクリートを抜けると、先は廃ビルが立ち並ぶ吹き抜けになっていた。一隅に、ぽつんと怪しげな提灯が一つぶらさがっている。
彼は神妙な顔で立ち止まり、腕組みをした。

「ここでいいのか?」

ちらと視線を下げた彼は蜜柑箱に載った靴のかかとを目ざとく見つけ、下がっていた暖簾をくぐりサッと身を滑りこませた。

「・・・ビンゴ!」

急ごしらえの密談室、どっかり座り込んだ人影を見た猿野はニヤリと笑った。
幅広のサングラスをかけた男が膝頭に腕をつき、眉間の前で手を組み合わせて闇のオーラを放っている。
どこぞの最高司令官めく姿勢で木箱に座る男の容貌に猿野は感嘆の息を漏らした。

「ワンポイントで完全に売人っすねキザトラ先輩。」
「・・・用件に入ろうKa。」

逆光でカッとレンズが光り白い額を引き締める。その威儀に圧倒されることもなく、猿野は不敵な笑みを浮かべた。

「わかってますよ、事前に連絡頂いてんすから。」

猿野はおもむろに黒いマントを羽織って頭を屈め、ばっと身に纏ったものを脱ぎ飛ばした。
きついコロンが鼻を打ち、蛍光色のルージュが視界にぐわっと迫る。現われでたは艶めかしき花の女子高魅惑のグラマーポージングv

「アタイの色香でターゲットをオトすのが今回の任務ね?」

バッチーン☆と分厚い睫毛でウインクを飛ばす彼女に、さっと背筋に鳥肌を立てた虎鉄は全身全霊の力で笑顔をつくる。

「まあ、似たようなもんDa」

こめかみをガクガク引き攣らせ、マニキュア厚い手とハイタッチする。意味深な目配せと共に『ギュッv』と握られ、ぞわっと鳥肌が駆けのぼる。

「いやぁーッはっはっはッ!十二支の金満プリンスにリトルブッダ先輩、その他以下略モブメンツを差し置いて真っ先に俺の力を借りようたぁ虎鉄先輩も目が肥えとりますよ!うん!」

豪腕でバシバシ肩を叩かれ、額にピキッと青筋を立てる。耐えろオレ、耐えねば虎児は得られNaい・・・!

「大根先輩のぞっこんLOVEな俺が虎鉄先輩の差し金で自然児(ナチュラル)ボーイをたぶらかそーって企画ッ!やだ卑猥・・・!」

ハイテンションで滔々とまくしたてる猿野に、彼はいっしゅん歯噛みした。なにか胸をしめつけられるように 行き場のない怒りが湧く。彼は切れ長の目をギロリと持ち上げた。

「あいつが惚れてんのはテメーじゃねえだRo」
「・・・ヤダ恐い虎鉄キュンッ!怒っちゃやーだv」

ぷにっとほっぺを十字突きされた虎鉄がのけぞり後ろへ吹っ飛ぶ。
うふふ・・・と嬌笑しつつも予想以上に冷たい声に狼狽し、汗を垂らした。

(なんだよ冗談だろふつーに・・・機嫌わりぃのかぁ?)

気づいた猿野がハッと瞠目する。――まさか。

「『アレ』が切れたせいで・・・!」
「違うわッ!!」

フーッと息を吐いて、額の汗をぬぐう。

なにをイラついてんDa、くだらねえことで。・・・オレらしくもねえ。

耳のそばを蝿が飛び回っているような、うっとおしい不安に、胸がざわめく。波が打ち寄せ砂が擦れるみたいに、ざわざわ ざらざら・・・
いつのまにか、虎鉄は眉間に深く皺を立てていた。
「・・・A?」
いけない、こんな面してたら道ゆくハニーたちを恐がらせちまう。つっと額を指でなぞり、眉の力を抜いた。
――今はこうしてる時じゃNaい。

『だったらてめえでなんとかしろ!!』

脳裏に父の大喝が蘇る。ヘン、と口を曲げ、虎鉄はすらりと背を伸ばした。
言われるまでもねえ。オレは子供じゃない。拳固を喰らわにゃならん理由も必要もねえんDa。
今しがた再びずきっと痛みだした顎を、彼は忌々しげに押さえた。

ああこんな時、優しいベイビーのふとももで、ほわぁっと甘い休息を取れたらNa-h・・・

だがそれは出来ない。
こんな格好悪ぃトコ見せたら、女の子に幻滅されちまう。
ずぎっ と神経が軋み、彼の端正な顔はさっと歪んだ。

駄目だ これを我慢することはできない。

虫の喰うような奥の疼きに、額がすっとつめたくなっていく。
くそッ!と吐き捨てたいのを後輩の手前こらえ、平気な顔をつくる。噛み締めたくちびるに嫌な汗が垂れる。

(・・・畜生ッ!)

虎鉄は心中に大声で悪罵した。

ガキの頃以来Da なんでいまさら・・・!

歯磨きを怠ってはいないが、疲れた夜 女の子と遊びまわった日は夕飯も取らず甘いものばかりぽんと口にして 疲れてけだるくて、そのまま眠ってしまっていたことを彼はいまやっと、ぼんやり思いだした。
その報いKa。そんな他愛ない放縦の応報が こんなしいんとした凍りつく痛みを奥歯に注がれて、神経ごとぐずぐずに融かすみたいに。

神様、オレそんな悪いことしましたかNe。

むなしい恨みを天に訴え、そんなことで煩悶する自分の見苦しさにますます腹が煮えくりかえる。
こんなのは自分じゃない。格好悪い虎鉄なんか虎鉄じゃない。そううそぶいても、「違うだろ」と嘲笑する声が胸奥で響いて、なおさら目元を暗くする。

違うんだ。
ふかくふかく目を伏せて、重いかたまりを気づかれないよう飲み下す。

『そげなもん ほんとの強さじゃなか。』

涼しいめもとが虎鉄の脳裡に蘇る。

(違えんDa、猪里。)

頭のなかの彼に言っても何にもならない。わかっている、そんなことは 虎鉄にだってじゅうぶんわかっている。釈明しようとする彼の胸を嘲笑うようにまた軟い肉がずぎ、と痛んだ。
当り散らしたい。なんでも壁にぶつけて壊しまくって、怒鳴り散らしたい。こんな、ちっぽけなことで。
泣きたいような情けない気持ちになって、虎鉄は強いて楽しいことを思いだそうとした。

まるい稜線 白い柔肌 

『あの感覚』を思いだし、ううと呻きを洩らす。

肩をひっかく黄緑のネイル あたたかく濡れた息 囀るような、あだっぽい嬌声。

悶々と、熱病みたいな官能が痛みに燃える頭をぐらぐら揺らし、顎の疼きを煮とろかした。
みずからの色恋狂いの性情が、どうしようもなく悶える虎鉄のからだを胸をせつない焔でごおごおつつむ。
ぷるんとした唇で いま触れられたい 薄めのグロスを優しい手つきで塗っていたあの子 毎晩何千何百とメールを寄越して虎鉄を辟易させた、元気で寂しがりなあの子。へちゃむくれた自分の野球部への愚痴も我慢強く聞いてくれて、時々おしるこなんか奢ってくれたあの子。
みづき。
ユリ。
朋子。
玲子、りいあ・・・ナツキ、早苗!
じぶんを去っていった彼女らを目にうかべ、彼はなやましく息をついた。
求めて、捕らえて、逃げられる。
そのサイクルを何度も繰り返して虎鉄は今日も夢に酔う。
女、おんな、オンナ。
女が欲しい。
虎鉄が疲れて帰るまま泥のように眠ってしまったのも、思えば女のせいだった。それでも求めることをやめられない。そんなことは考えることもできなかった――虎鉄には。
じぶんでも呆れるほど、胸が焦がれる じりじりと、今ここに無いものを。

『人類の母』

女の一般を、虎鉄はそう表現することがある。

そのことばは彼にとって 塩基配列がどうとか、ダブルエックスを持つ種族、自分と対にある異性 ということ以上に重要な、たいせつな意味を持っているようだった。
そんなにむずかしい話でもない。

ごく幼いころ、とても身近な悲しみと出会った彼は たいそう女っ気のない家庭で育った。

そのせいか、彼は世間の『女性』にずいぶんな夢を見、求めるところがある。なかば地を離れたような、現実の肌触りのないロマンチシズムを生身の女に追い求め、すかっと空ぶることが名度もあった。もどかしく、心切なく 彼はとうとうこころの交感では我慢できなくなって――そのさきへ手をのばした。
想像したより、いいものだった。
じっさい肌で触れてみて、なかばは癒されたし満たされた。でもそれだけじゃない、うしなわれた女のものがたりが充たされない飢餓と渇望と、愛欲に浮かれたつ虎鉄の若さを横からこつんとぶった。
『いねえもんは仕様がねえ。』
そう言って、ふいと背を向けた父の後姿を覚えている。ぼそりと放たれた声と、大きな肩のかすかな慄えを見て、記憶に遠い喪失感を虎鉄はあらためてじっと我が身に感じた。

いねえもんはしょうがねえ。

そうだな、親父の言うとおりDa。
それでも手のひらをすり抜けていく、忘れたぬくもりのいとしさ、恋しさ。
どうしようもない。とりかえしのつかない、仕様がない。
幼い虎鉄は泣いた気がする。気がする、というぐらいだから、記憶はほんのおぼろげなもので そのことは虎鉄をだいぶ楽にしたし、切なくもした。おもかげ遠いそのできごとは、生来気ままな道楽者の彼をすこしばかり、詩人にした――とんでもなくちゃらちゃらした、鼻持ちならない好きもののこころでも ひえびえと弦月冴えるしめやかな夜 たくさんの星がそらに散って、こおこおと雲の上で飛行機が鳴るゆうべ 虎鉄はだれかに呼ばれたようにふっと なんとなくよぞらを見あげて さみしいような満ちたりたような微笑みをうかべ、柄にもない純真な感傷に浸ったり。目にはみえない誰かをおもい、星のひとつひとつに目をそそぎ 誰にも聞こえないようなかすかな声で、おさないころの歌をうたったりして 哀切な、あまい愁いは男ざかりの彼の目許を不思議に色っぽく飾りなし、発育するにつれ虎鉄を慰めてくれる女の子はわらわらと増えていった。
それでも虎鉄はときどき、寂しい思いをする。

『一人の女性に束縛されたくない』

臆面もなく あるいは泣きそうな顔で おなじく涙を落とした女の子の耳に、虎鉄はそっとそのことばをかける。
彼の「本性」を知った女性のほとんどが、速やかに虎鉄の腕を離れていった。
それもそのはずだった。
虎鉄のもとめるものは世界じゅうのどこででも会うことができたし――どこにもいなかったからだ。

物心がつく前か、付きだすぎりぎりの、境目の歳だった。

そのとき以来彼は、依頼心がつかぬよう、父親に厳しく育てられた。
「欠けた者」として、卑屈に溺れることのないように。
悪さをすれば拳骨と、瞬時に涙ものの堅さに変わったその手のひらは、時に大河の頭をやさしく撫でた。分厚くごわごわした、かたい肌は、おでこにじんと熱かった。
虎鉄はほかのひととおなじように泣いたり笑ったり歌ったりしながら、思春期の窓へぐんと顔を突っ込んだ。
虎鉄は明るい。虎鉄は優しい。
ふかいふかい愛情できびきびと育まれて ことば足らずの不器用な、手荒い教育に一見軽薄に見られがちな軟派な立ち居振る舞いはどう育ったものか。つまらないことは笑いとばし、楽しいことにはあびるほど耽溺し、非道な悪に出くわせば、紅い眼は怒りに炯々と燃えさかる。やむにやまれぬうれいには、ものうい炎が瞳の奥に宿り――
だが時に 虎鉄の切れ長な目は、見た者の背をひやりと硬直させるような、冷めた色をうかべることがある。抜けるような青空の、明るいおおらかな素直さと背中合わせに 彼の内には。

「・・・自分でなんとかするSa。」

ささやかな、臆病がひそんでいた。


――ぼそりと呟いた虎鉄の横顔に、猿野はむうと口を曲げた。黒いまなこを案じ顔で三度つむり、眉をよせる。

ここ最近のキザトラ先輩はなんか、不機嫌だ。
突然「任務を与える」とメールを寄越された時はまーたなんか浮かれた女遊びでも始めて・・・んで俺に教えてくださったりなんかする!?と妄想で舞い上がりかけたが、会ってみりゃあこの通り。
ガールハンツたぁ到底思えねえような、黒撰とこのメランコリックイソギンチャクを彷彿とするダークサイト。気のせいか顔も青い。
上から目線のモテ自慢も気取ったクネクネムーブメントも開店休業中で、練習も、得意のバッティングが振るわねえ。なによりいつも一緒にいる大根先輩を避けてるみたいで それは、なんつーか、違和感。

「ねえクネトラ先輩」

がくりと肩を硬直させ、虎鉄はゆっくり首をめぐらせた。

「んだYo」

冷ややかな目が返ってくる。まだ苦しんでいるらしい――何かに。

「いやー何ってこともないんすけど、」

にこりと笑って頭を掻く。

「虎鉄センパイ、なんか ・・・隠してませんか?」

虎鉄の目が大きくひらき、食い入るように猿野を視る。

「あいやっ それがどうだっていうんじゃないんすけど、」

彼は目を張り、慌てて手を振った。

「最近のクネトラ先輩は凪さんたちの差し入れも食わねえし、なんか憚るみてーにふさぎこんでそのくせ反動で時々やたらハイテンションで『あ、やっぱこれはキメてるな』って感じの、」
「Stop!」

ばっと手をひらき、猿野の口へかざす。

「テメーの発言の局所的不謹慎さは置いといて、Da。」

低い声で、ぼそりと云った。

「気のせいDa。猿野。」

猿野は瞠目し、まじまじと彼を見つめる。

「オレはいつも通りDa。悪いモンも食ってNeーしヤバい商売にも手ぇ出してねえ。」
「・・・だからっ!」

猿野は眉を吊り上げ、勢い込んで食らいつく。

「『おかしい』っつってんですよ俺らの目から見て!いつものアズキ飲料も飲まねぇし、バッティングだって全然ダメダメじゃないっすか!入部した頃のキザトラ先輩がSHIDAXなら、ここ最近のアンタは独男の家風呂だ!!」
「たとえが分かんねーYoッ!!」

ふざけた応酬だが猿野の指摘は痛い所を衝いていた。わかっている――『コイツ』のせいで、大切な野球にも支障が出ていること。疼きのあまり無意識に噛み合わせが弱まって、インパクトの瞬間体幹に力が入らないのだ。本大会も始まったってのに こんなん抱えてヘマやったら、誰にも顔向けできねえ。苦い思いを呑みくだし、虎鉄は気づかれないよう嘆息する。
これを放置することはできない。部のためにも、自分自身のためにも。
わかっているんだ

「・・・っと、」

片腕を猿野の肩に掛ける。吊り革につかまるように、ゆっくりとした動きだった。猿野は驚いてその横顔をしげしげと見つめる。しばらくして虎鉄は、まじめな顔で言った。

「オレは何も変わらない。」

猿野が目を開く。

「オメーからすりゃそりゃ怪しいだろうGa、これだけは言っとくZe」

 ・・・オレは、

「後ろ暗いところはねえ。」

 隠すことは、あっても。

「野球部に迷惑かけることMo、お天道様に恥じることもしちゃいねえ。それだけHa約束する。」
「でも・・・!」
「理由は聞くNa。そう言っただRo」

断固とした、ねじ伏せるような響きだった。
その声の重さに、気圧された猿野は言いつのりかけたことばを喉の奥に引っかけてしまった。なにか言おうとして、眉をしかめて 二、三度またたく。気づくと当の相手は彼に背を向けて、さっさと歩きだしていた。

「行くZo。」

振り返りもせず踏みだした彼の後ろを、十二支の一年生スラッガーはぎょっと目をみはり、慌ただしく追いかけていった。




がやがやと威勢のいい声があちこちで飛び交う。つうんと青臭い、さわやかなにおいが初夏の太陽の下、かわいた熱風にまじってひらりと鼻を抜けていく。足元に陽炎が立ち、黒砂利がキラキラ光っていた。
近隣の主婦が子連れで買い物に訪れ、隣県から来た業者はカートで忙しく路傍の石を跳ね飛ばす。高い声に低い声、にぎやかな喧騒が雑然と蜂の巣みたいにあたりをつつんでいた。人や物でごったがえした市場にほそながい影がゆらり、長弓のように立っている。
迷彩柄のツナギにカーキ色のバンダナを頭に巻き、ダンボール箱を脇に抱えた虎鉄が神妙な面持ちで屹立していた。平素のフェイスペイントのかわりに黒と茶のドーランが彼の卵形の顔にべとべと塗ったくられている。物陰から現れた全身黒スーツの猿野がスッとメガネを掛け直し、不敵な笑みを浮かべた。彼はトランクからオープンリール式テープレコーダーを取り出し、人差し指でスイッチを押す。ザザ・・・と掠れたノイズ音が十秒ほど続き、男の低い声が流れだした。

「おはようフェルプス君。今回の標的はタケオミ=イノリ17歳、十二支高校野球部に所属。パーソナルデータは次の通り。
・猪里 猛臣(Inori Takeomi) * Age:17. Height/Weight:162cm/55kg.
●右投左打・守備走塁特化型選手。
●誕生日:4月12日 
●血液型:O
●趣味/特技: 食べ歩き、畑仕事、朝市で値切ること、試合の中〜終盤でニクい見せ場をかっさらっていくこと
●好きな物: ひよ子サブレー、ラーメン屋、田舎でとれる新鮮野菜、明太子入り弁当、弁当入り明太子
●苦手な物: 流行もの、数学、たこ
●好きでも嫌いでもない物(好きとか嫌いとかじゃなくて大事なのはSoulでしょ?・・・まあどっちかというと視界に入れたら舌打ちぐらいはしたくなる物):虎鉄先輩、昨今のスマホ押し押し攻勢、客の前では腰が低く愛想が好くてとっても感じがよかったのに厨房に引っ込むと従業員を蛇蝎の如く罵倒する声が聞えてくる笑顔の素敵なあの店長

「いろいろ捏造してんじゃNeeeeeeeeeッ!!!!!」
ラップで鍛えたメロウボイスが威勢よく空へ跳ぶ。
「例によって君もしくはメンバーが捕らえられ、あるいは殺されても当局は一切関知しないからそのつもりで。なおこのテープは毎週火曜、自動的に収集車へ破棄される。」
「そーそ、プラスチックゴミはちゃんと区分しないとNe・・・って手動Kaいッ!!!」
「ツッコミのキレが甘ーいキザトラせんぱーい」
「うるせぇYoッ!大体何大作戦Daこれは!?オレはス○ークかッ!!」
「そーいう羅列系の攻めもワキが甘いんすよ。ネズッチューの迷いないメガネ割りを見習ってください」
「それ辰羅川くんっすよッ!!!!!!!!!」
「『!』の多用は目が滑るんだYoッ!!!」
「んー4点。」
「Shit!判定厳しいZe・・・」
「ボクの出現にツッコんでくださいっす・・・」
タイミングを間違えましたね…と落涙する辰羅川に肩を抱かれながらすごすごと去っていく。
あたりも構わずギャーギャー騒ぐ猿野たちの横を、木籠を担いだ業者が怪訝そうに過ぎる。

「県内大手、青果卸売市場!」

虎鉄はぴっと空へ指を立て、高らかに天を仰いだ。

「埼玉中枢に位置するこの一大BIG野菜即売会に来たのHaほかでもNeえ。昔猪里が、毎月、第二日曜日は必ずここへ来るって言ってたからNa。大根とか胡瓜とかアイツの好きそーNaエリアをぶらついてりゃきっと会えるだRo。そこへお前が偶然を装ってあのバケモノに変身し、猪里を捕獲!」
「――って寸法Da。」
「あ・・・わざわざども。」と猿野はローテンションで頭を下げた。行くとき説明したのに・・・とつぶやくのを聞えないふりをし、虎鉄はフーッと鼻息を荒くする。

「つってもこんだけ人がいる中で・・・どーやって見つけるんすか?」

かんかん照りの太陽に閉口し、猿野はだるそうに唇を突き出す。「よっこらしょっ」と敷石に腰掛け、そのまま地面に寝転がった。早々にサボりだした猿野をちらと睥睨し、虎鉄は雑踏のなか悠然と腕を組んで立った。強い日差しに目を眇め、まぶしそうに遠くの人波をながめやる。と、

「・・・N?」

整えられた眉がピクッと動く。
遠目に捕らえた人影は炎天下真っ白な光を放っている。無地のTシャツ、ゆったりした作業ズボン。虎鉄の視界がぐらりと揺れた。
針のように細い瞳孔が、ぷつっと錐を立てたように広がる。
芋を洗うような人ごみ、幾層も隔てた黒山の遥かむこうに 落ち葉色のくせっ毛が風になびいてふわっとゆれる。ブラッドオレンジの双円が獲物を追う虎のようにカッとみひらかれた。

「いた・・・!」
「えっ どこっすか!?」

驚いた猿野はまじまじとその横顔を見つめる。
どんな視力してんだこの人。つられてじいっと目を凝らすが、それらしい人影は一向に見えない。数十メートル先を凝らしても・・・

「・・・あっ!」

(確かにありゃあ、)


――あの、のんびりと腕をふるしぐさ


「走るZo。」

瞠目した猿野の襟首をひっつかみ、遠目にゆれる影めがけ男は疾風のように駆けだした。

眩しい。陽が強過ぎる。白く光る 遠い、もうちょっと ――あと少し!

息が切れる ぐんぐんせまる後影に虎鉄は知らず面を輝かせ、光源に目を投げた。
あたたかく沈んだオリーブ色 おどろいたようにみはる眼は鏡のようにきらめいて、ふわり 揺れた前髪がうれしそうに野菜籠を覗きこむのを見た瞬間、彼はガラスにぶつかったように立ちどまり 胸のあたりをぎゅっと握った。ぜえぜえ高鳴る鼓動を、そこで押しとめようとするかのように。

「・・・猿野」

せりあがった息が喉に詰まる。虎鉄は餓えたように熱く喘ぎ、瞳を燃やした。猿野はその横顔をながめ、ぴくっと唇を丸める。
彼の瞳が、なにをみているか。
こういうときだけ聡い後輩は、虎鉄がなにか言う前にもう脱兎のごとく駆け出していた。

「――はいよっ!」

ちゃちゃーっと化粧をほどこし超スピードで虎鉄云う所の『バケモノ』に変身した猿野は、得意げな視線を彼に投げて、ニタッと口を曲げ。

「『虎鉄先輩指導』ッ!」

 光源へ、走りだしていた。

「踊る踊る踊るストーカー大作戦、行ってまいります!!」



***


「あンッ ごめんなさっ・・・!」

ぱちんと乾いた弾力がふたつの指を打ち、黄色い悲鳴がどさりと落下する。

「だっ 大丈夫とや!?」

縮れっ毛の少年は反射的に振り返って声を上げる。ぎらつく太陽がその丸顔を逆光で黒くふちどった。
彼は地に倒れこんだ人物をみとめるとおおきな目を驚きによけいに大きくして叫んだ。

「あ、明美ちゃん・・・!?」

ぱっと頬を染め、まじまじと彼女を見つめる。丸い瞳が透きとおって、澄んだひかりを投げかけた。
へたりこんだ明美に猪里はわたわた泡を食って、あわてて手を握り助け起こす。

「猪里くんっ・・・!」
「ごめんな!ちっとばか力入れすぎたかもしれん、怪我は無かと?」

手と手があう瞬間好きだと気づく小悪魔明美トラップその1――猪里が陳列皿に手をのばした瞬間盗塁のごとき速さで振りかぶり、置いてある大根へ同時に手を伸ばす。触れた瞬間さっと転げて乙女座りでへたりこみ、慌てたオトコに介抱させる。手と手ドッキリ大作戦、まんまと成功である。

「あぁ、俺のせいで・・・!」

地面に転がった自分の買い物袋もかまわず猪里は心底すまなさそうにへにゃんと眉を下げ、素早く肩を貸した。しっかりと背中を支えてやり、体重を預けさせるようにして立ち上がった彼に明美がポワァンと見惚れる。
「んーん、明美ちっとも痛くない!でも痛いッ!!あなたを見た瞬間、胸がズキズキ・・・して・・・」
「ズキズキして・・・その、ズッキンズッキンで・・・ッ!」
不審な動きできょろきょろ辺りを探す彼女に、虎鉄は頭を掻きむしり小声で怒鳴る。
(なにキョドってんDa!堂々としねえとバレちまうだろGa!)
(違うんすよ、肝心なもんが見当たらないんです!胸がズキズキ・・・こういうときは『アレ』がねえと・・・!)
(なんDa肝心なものって!?胸がズキズキ・・・まさかお前、病気でも!?)
さっと青ざめた虎鉄が身を乗りだしかけた刹那、猿野は散らばった買い物袋の中身に目をとめギラッと光らせた。

「これだッ!!」

勝ち鬨をあげ握った拳をぐわっと突き上げる!

「・・・ズッキーニ?」

猪里がきょとんと明美の掴んだ野菜を指差す。グッ!とサムアップした彼女に虎鉄はヘッドスライディングでツッコんだ。

(ネタKaいッ!!しょーもな過ぎるわッ!!!)

「あははっ 胸がズキズキでズッキーニって、明美ちゃんお笑いの才能もあるんやねぇ!」

ぱあっと目もとが輝き、少年はまるい顔を赤くしておかしそうに笑った。
けらけらと、ひろった包みを落とさないようひいひい腹を抱えてわらうさまをみると、本気でウケているらしい。虎鉄はげんなりとその笑顔を見つめ、右手でメガホンをつくり小声で呼びかけた。
(・・・オイさっさと作戦を開始しRo!)
(えー、もっと爆笑明美オンステージ楽しみたーい!)
くねくねぶりっ子する明美に虎鉄はキッと眉を吊り上げ中指を立てた。
(グダグダ言わねぇDeしっかりやれッ!デケー報酬払ってんだからNaッ!!)
『デケー報酬』とは金ではない。・・・中学時代から溜めに溜めた、思い出深き秘蔵のあっはーんなVHS&DVDを猿野の懐へ移譲することは虎鉄の胸に多大な痛みを与えた。だがこれ以外に方策が浮かばない。ハニー達とのランデヴー、服やらカラオケやらボウリングやら遊園地やらに日常的に資金を投入している虎鉄の懐に後輩と取引する種銭は残っていなかった。さて残る二人の共通通貨といえば・・・だ。
捨て猫みたいな顔で少年はぎゅっとくちびるを噛み締める。
じわっと滲んだ視界を腕で拭い、恨みの篭もった目で猿野をじろりと睨むと、クネッとしなをつくって色目を送られた。

「フフ・・・そのギラついた眼差し・・・アタイのダイナマイトボディにヨダレゴックンね?」

心配しないでくださいよ、と目配せし、きつい色の唇でチュッとキスを送る。
(『乙女の媚態で大根先輩をたぶらかしスイパラデートに誘うと見せかけ目隠しプレイを要求、そのまま純情ボーイを三丁目のデンタルクリニックへ連れてく計画』、滞りなく済ませてやりますよ!・・・にしてもなんでんなマネを?)
さっぱり意図の掴めない猿野はハテナを飛ばしながら、それでも与えられる報酬のリッチさにゴクッと唾を飲み込み野卑な笑いを浮かべる。
(待ってろよMy下半身・・・!)
「今宵はオールナイツ!夜もヒッパレまっぱだカーニバルだぜ!」
「なに言うとるの?」
「・・・ッどわァーッ!!!」

明美の挙動不審な言行に少年が不思議そうに二人のあいだへ覗き込む。虎鉄は光の速さでダンボール内へ滑り込み、ズザァッとアーミーズボンの膝を磨減させた。

「猪里センパ・・・あいやいや猪里キュン!ただのひ・と・り・ご・とv」

目を点にして首を傾げる猪里に、明美があわてて媚びすりよる。

「・・・そ、それより偶然ねぇこんなところでッ!猪里キュンもよくここ来るの?」

日常的に即売所へ出向き市場にも精通している猪里は、おう、とにっこり笑ってうなずいた。

「うちの畑でつくっとらんもんは大抵ここで仕入れとるよ。ここのじーさんは目利きやから、間違いなかけんね」
「へえー・・・」

いまいちピンときていなそうな明美の表情に猪里はんー、と口の中で唸り、目についたピーマンをひょいと持ち上げた。

「たとえばこいつなんか、全身きれいな緑色やね!ばりうまそーやって。ヘタもピンと立って肉厚でやわこいけん、汁がいっぱいつまっとうよ。」

にこにこ笑って解説する猪里に猿野は渋そうな目でおちょぼ口をする。

「えーってか大根センパ・・・猪里キュンまさか、ピーマンも丸かじりするの?」
「ははっ 流石にピーマンは青臭かねぇ。ばってん、取れたてはけっこう甘いんよ」

明美の言葉に愉快そうにうなずいて、「いいこと思いついた!」という風にどんぐりまなこをくりんと閃かせる。これひとつ!と握ったものを手渡せば顔見知りらしき青年が「まいど!」と答えて歯を見せた。

「ホレ、明美ちゃんも食べー」
「へっ?」

突きだされたビリジアンの青果にたらっと汗を流す。――まさか。

「とってもうまかよ!俺がご馳走するけん、さあ!」

ほれ、と好意満々で右手をさしだす猪里に猿野はガクッと顎を落とした。

「・・・ピ、」

(ピーマン生で食えってかぁ〜〜〜ッ!?)

あまりの事態に蒼白の猿野は震える指でソレを指差し、助けを求めるように背後の監視者へ振り返るが彼は冷酷に首を振った。
(駄目Da、食え。)
(そんなぁあああ!!!クソ苦いっすよコイツッ!アク抜きしてねぇっすよ!?アクあんのか知んねーけど!!)
(LOVE×2度を上げるにゃもってこいのイベントだRo?ホレ、『あーんv』してもらえYo。)
凶悪な笑みをうかべて顎をしゃくる虎鉄に、ギリッと歯を食いしばる。

「あ・・・」

「「あーんv」」

はにかむ猪里の指先からざぶりとピーマンに齧りつき、涙目で咀嚼する。

「お・・・お゛いひぃ・・・v」
「そやろーっ!」

嬉しそうに両のこぶしを握り、目をキラキラさせる猪里に明美がヘロ顔Wピースで応える。

「こんなおいしい野菜知ってるなんて猪里くん博識!!スゴーイっ!」
「そ、そげん褒めんでも・・・」
「あーん謙虚っ!ホントにホントにカッコイイんだから!」

照れくさそうに頭を掻いてうつむく猪里にさらなる猛攻をかける。

「試合のスライディング走塁もカッコイイしナントカ眼もカッコイイし、なんで付けてるのかわかんないその鼻バンドも全部カッコイイ!!!」
(適当すぎんだRoッ!!)
「あっああ明美ちゃんにそこまで言ってもらえるなんて俺っ・・・!」
(効くのかYoッ!!!!)

甘い言葉にめろぉっとのぼせあがった少年に猿野は心中ガッツポーズをして続ける。

「あー猪里くん本当カッコイイ素敵・・・その休日のお父さんみたいな格好もステキッ!明美いますぐデートしたい!猪里キュンとっv」
「デ、デートぉ!?」
はっと目をみひらき、茹でダコのように真っ赤になった。
(Oh?)
「そ、そげなこつっ!まだ早すぎ・・・ることもないかもしれんけど、そんな、俺と、明美ちゃんが!?」
「ダメぇ?」
「だっ だめってこともなかばってん・・・」

人差し指をくりくり擦りあわせ、カーッと猪里の頬が朱に染まってゆく。

「て、いうか ・・・あ 明美ちゃんさえよければっ おれは・・・」

小さくなっていく語尾に乗じて猿野が一気に畳み掛ける。

「じゃー決まりね!ねぇ猪里キュン、実は明美ぃ、前から行きたいと思ってたケーキバイキングがあるんだけどぉ、」
「でっでででデートてっ、本気で言っとうの!?俺まだ心の準備ができよら・・・ああっ!?」

グイッと手首を引かれつんのめり、転びそうになったところをごつい胸板に抱きとめられる。

「あ 明美ちゃ、」

ぽーっと茹でダコのように赤面する猪里に、バチンとウインクしてうむをいわさず同意をとる。

「イイわよね?」

太い腕にホールドされたまま、宙に浮きかけた足を猪里はちょっとばたつかせた。くちびるをもにょもにょ動かしてわずかにためらい 赤い顔でこくんと頷く。猿野はニッカリと歯を見せた。
意外に強引なんやねぇ・・・とあっけにとられてぽつんとよりかかる猪里を、虎鉄はすこしまぶしいような眼で、じっと見つめた。

(・・・この調子ならうまくいきそうだNa)

彼はちょっと顎を上げ、空を仰ぐようにした。強い光線が網膜を焼く。まぶたのうらが痛いほど赤い。
喉になにかつかえたような、ほろ苦い圧迫感がした。
計画は順調だ。この分なら虎鉄は目論見どおり、猪里を連行できるだろう。なのに 腹のあたりが重苦しい。

・・・何Da?

名状しがたい焦燥感に、少年は怪訝そうに自分の手のひらを見つめた。わいた汗はじっとりと胸の不快感を膨らませる。
――どうして。


どうして俺は、こそこそ隠れているんだろう。


胸の奥に湧いたもやを振り切るように、バンダナをぐっと目深に下げた。
猪里の高くもなく低くもない声が虎鉄の耳をふわっとかすめ、野太い男の裏声と混じり遠ざかっていった。






きんと照りつける青天に、ぶあつい白雲がひろがる。
からんと瓶を鼓したような音色が鳴りわたり、跳ね上がった球は薄黄の前髪を突っ切って蒼穹へいきおいよくのぼっていった。まだ少年のおもかげを残している横顔が驚きと高揚にぱっとわきたつ。後の十二支高校野球部主将・牛尾御門の澄んだ瞳が、生きものみたいにバウンドして地を駆け上がった白球を驚きの目で追った。彼は子供のように目をみはり、感嘆のさけびをあげた。

「凄いよ猪里くん!まるでフィールドに魔法がかけられたみたいだ!!」

きらきらと目を輝かせ、熱っぽく息をついた牛尾は驚嘆のまなざしで眼下の少年を見つめた。

「君はほんとうに、素晴らしいバントヒッターだよ・・・!」

胸の前で握った拳がこきざみに震えている。
浴びせられた熱烈な賛辞に顔を赤らめ、少年は「い、いや・・・」と恥ずかしそうに唇をすぼめた。

「そげんに大げさな・・・あ、いやッ!そんなに大したもんじゃなか・・・じゃなくてっ!」

慣れない口調にわたわた手を動かして、きまりわるそうにもごもご口を覆う。

「褒めてもらうほどのものじゃなか・・・いです。」

赤面してこっくりうつむいた丸顔に、牛尾はくすっと微笑って首を振った。

「そう硬くならないで。僕たちには、お国のことばで喋ってくれてぜんぜん構わないよ。」

その言葉に彼はほっとしたように眉をゆるめ、ぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございます!・・・回り道しよるみたいで、都会ん言葉はなかなかこなれんったい」
「近々稀に見る打ち筋、天晴也。中学時代もさぞ研鑽を積んでいた事であろう」

顔前で恭しく片合掌をした蛇神が、満足気に頷いて牛尾と顔を見合わせた。

「どんな力があったって まともに揮えるのはせいぜい二年後なのだ。」

小柄な影が背中越しにゆらりと声を放った。暗い響きに、その場の全員が身を強張らせた。
牛尾はかすかに眉を下げまなかいを曇らせたが、すぐに首を振って、皆を安心させるあの笑顔をした。

「どんな力でも、磨きをかければもっともっと輝きを増すはずさ。いまは明日を信じて特訓を重ね、皆が日の目を見るときを待とうじゃないか。」

にこっ と笑い、部員たちのひとりひとりを見つめた。

「「「・・・はい!」」」

一瞬の静けさの後、色とりどりの声が一斉に唱和した。
決して明るいとはいえない、十二支高校野球部の現実。地力のある者も、やむなくおのが牙を眠らせて、悶々と不満だけを溜めていった。
おおきな壁に直面し、ぶつかってこころに血を流して後――牛尾・蛇神らの世代は隠忍の果てに、いずれ来たる『時』を待つことをえらんだ。
転校、という道もあった。一刻も早く「表舞台」で全力の試合をしたいと思うなら、本当にそういう道もあったはずだ。

・・・こんな不当な扱いはない。

下級生のすべてが苦汁を嘗め、煩悶の末に、一部の者は野球をやめることも考えた。
だが結局、誰も『十二支』を諦めることはできなかった。鹿目も、三象も、一宮たちも。
野球部に苦い失望を味わったあとも 彼らの胸に、村中紀洋の伝説は燦然とかがやいていた。
輝かしい戦歴に、法螺話のような数々の逸話。ベストメンバーの揃った当時の十二支は強過ぎる光で綺羅星のように群居する雄校を圧倒し、一時代を築き上げた。
神話めいたその高遠な声望は十二支を目指した少年らにとって遥かな得がたい、『野球』を臨むこころの灯台だった。

それは猪里たちにとっても同じだ。

ひたすらに、沈黙のうちに幾度も苦涙をのんだ。
ながいながい充電期間を経て技を磨き、既に同・下級生の指導的役割を果たすようになっていた牛尾。その激励に一二年生が決然と顔をあげ、おおきな声で喝を入れた。

「・・・おおッ!!!」

猪里も、さけんだ。おおきく口をあけ 「卑屈になってはならない」と互いを激励するごとく、声の群れは高らかにグラウンドの一角で共鳴した。敷浪のようにかさなる呼吸、そのなかに敵対する少年の声を感じ 猪里は一瞬、なんともいえない戸惑いと葛藤をみせた。押し隠したよろこびに抑圧感 そして、苛立たしいもどかしさ。ちらと虎鉄のほうを見て、にらむように眉をとがらせてみ 自分ではうまくいかないことを知って、やめる。
蛇神は薄くあいた瞼の下で少年を眺め、小さく息をついた。気づかれないよう向けられた視線に牛尾がかすかに頷く。
ほぉーと間の抜けた息がした。いたく感心したような目で長門がまじまじと少年を見つめる。

「にしても凄えよなぁ・・・どーして分かんだよあんなバウンド地点なんか?」

虚を衝かれた猪里はすこし意外な顔で彼を見返す。うーん・・・と低く唸って顎に指をかけた。

「どうしてっても、なぁ。」

透明感のある瞳がくるりと動き、空中で静止する。
猪里は眉根を寄せ、ゆっくりと首を傾げた。じぶんの腕が、どうしてそんなふうについているのか、尋ねられたような顔だった。あたりまえのことをきかれ答えに窮する 猪里という少年にとっては、長門の抱く「疑問」じたいが疑問だった。それでも真剣な表情でまぶたに力をこめる。しばらくして彼は、いつになくまじめな顔で言った。

「教えてくれるんよ。」

あっけらかんと 素朴なひびき。
長門はぽかんと口をあけた。
声がわりしたばかりのみずみずしい音が初夏の砂上を吹きぬける。

「土とか小石とか、空気中の水とか。」

おおきな瞳を宙に据え

「『あっちからあーいけばこっちに「ポコッ」てなるけん、バットに芯持たせてこう、斜めに打ちー!』」

「――って。」

牛尾も蛇神も鹿目も、あっけに取られたように猪里を見、立ちつくした。
少年はまぶたをとじて、夢みるようにつづけた。

「風がこぉーって空で鳴って、土の匂いが『こっち!』って ふわって。」

「わかるんよ。」

「・・・・・・?」

頭上にハテナを無数に飛ばし、長門は顎を落として胡散臭そうに猪里を見る。
ケッ と背後で馬鹿にしたような息が鳴った。刺々しい視線を背に感じ、猪里の顔から表情が消える。
振り返ると、敵対的な眼光が返ってきた。緋色のふかい 冷ややかな正円。
この数ヶ月で急に猪里と身近になった色だ。
猪里はきゅっとくちびるを結んだ。ツンと顎をあげ背を向けたバンダナの少年に目を送り、かすかに唇を噛む。

ほんなこつ、言っただけばい。

「嘘やなか」
「・・・えっ いや、疑ってねえよ?」

長門が慌てた顔で手を振ると、ハッと顔を上げ それから、ゆうるりと微笑った。

「ああ、分かっとうよ」
「そうか、猪里くんにはフィールド・・・いや、大自然のすべてが味方してくれるんだね!」

ぱあっと面を輝かせた牛尾がしきりに頷き、崇敬するようにじっと猪里を見おろした。
落ち着いた風貌とうらはらな、くるくると動くこの表情が猪里は好きだった。へへ・・・と笑って、もういちど頭を下げる。

「こげんちまかこつでも、皆の力になれるんなら。」

気づくと、さっきまでの重い空気がすっかり和らいでいた。
長門はひとりうんうんと頷き、自分の手柄みたいにニヤッと口角を引き上げた。

「超能力みたいでかっけぇよな。そだ、名前付けたほうがいいんじゃねーか?必殺技みてーに」
「必殺技て!?」

にやにや笑って、ひやかすように肩を上げる。

「だから、そげなもんじゃなかって言っとろーや!」

猪里は当惑顔でへにゃんと眉を下げた。

「いいじゃないか。僕も格好いいと思うよ、君のそのちから。」
「牛尾先輩・・・!」

ますます猪里はくすぐったそうに、からかわんでほしか!という顔をした。

「地水火風、衆生を語らい万象を観る・・・不空自若の境地也。巧まずして得たお主の力、仏の道と相通ずるものがある」

温柔な微笑をうかべ、蛇神が彼流の教理を宣べる。
途端にそっぽを向いていた虎鉄が「お?」と眉を上げ、期待の込もった目で蛇神を見あげた。
またなんかスゲェこと言ってくれんのKa? 緩んだ頬が紅潮している。どういうわけか彼は、蛇神の一挙一動を文字通り神聖視しているらしかった。
虎鉄によればある時蛇神は、誰もいない部室で口中に陀羅尼を唱え、マントラで浮遊していた ・・・らしい。真相は依然不明である。が、虎鉄にはたった一度の熱狂でじゅうぶんだった。
「すげえ!」と心臓が沸き返り、なにかをブツブツ詠唱する蛇神さんのケツがひょいと座布団を離れストロボみたく後光が指しぴょやッと宙に浮いたその刹那、神を信じたし仏も信じたしついでにスターになって女子アナと結婚する自分の夢もまるっと信じた。人間に不可能なんざねえ。十二支野球部はカパフィールドを超えTa。オレだってアヤパンとゴールインできる可能性が1mmも無いわけでもない――こともやっぱり無いかもしんNeーけど夢くらい見たってEだろうGa!
彼がヨガの世界で見られる、結跏趺坐で下半身の力のみで飛び上がった瞬間を目撃したのかはともかくとして。
蛇神が一座の中でおもむろに何かを言い、またやりだすと虎鉄は「おおーッ!」と期待を露わに、蛍光色で彩ったほっぺをうきうき輝かせるのだ。
そんな彼の子供っぽい一面を知った猪里はまた、かゆいところに届かないようなもどかしい、かなしい顔をした。

あげん男。

猪里はちょっと小鼻をふくらませ、瞑目して首を振った。

(虎鉄は) 

(・・・俺は。)

いつからはじまったのか分からない 理解もできない軋轢がふたりの前に横たわっていた。
入部してから――いや、入学してからの短い期間で、十二支高には猪里にとっていくぶん辛い環境ができあがっていた。おそらくそれは、『彼』にとっても同じで。

最初はにこやかに挨拶した。ほんとうに、なんの屈託もなく。なにも知らない、これから知っていく。たまたま部活が同じになったという偶然が、無邪気な期待をそれぞれの胸に置き 青年期にさしかかる、白紙のノートの一隅に互いの時を共有して、新たな関係を築いていく おそらくは友として。

「オメーも一年Ka、はじめましTe。」

ぽんと手のひらをさしだして、猪里もきゅっとそれを握る。

「ん、よろしゅうね」
「おっ 地方出身?」
「おう、福岡ん糸島たい。」
「ふーん、ぜんっぜん知らNeー」

からりと笑い、猪里も思わずふきだした。
どこ中?へえ、ぜんっぜん分かんねーNa どこ小? きさん、適当に会話しよるね? HaHa〜N、バレTa?
思わず猪里はくすくす笑ってしまった。腹が立ってもおかしくないのに、その軽薄なテキトーさがなんかもうおかしくて。虎鉄もなにやら嬉しそうに、頬杖をついたままニッと目元をゆるめた。
明るいやつ。こいつとは仲良くやれそうだ。
お互いそう思っていたと思う。

・・・それが今。

猪里がなにか言うと、虎鉄は舌打ちをする。猪里には分からない理由で。
虎鉄がなにか軽率なふるまいをすれば猪里が眉をいからせる。「お前にゃ関係NeーだRo?」という、彼には理解できない猪里のおせっかい焼きからでた、風変わりな 素朴な理由で。
虎鉄と猪里 ふたりはべつな生きものだ。趣味が違い、感性が違う。遊ぶ所はどうやったって重ならないし、余暇の過ごしかたも見る夢も、肌も味覚も髪質も椅子の座り方までなにもかもがちがう。
だがそれ以上に、もっと噛み合わない、越境しがたい食い違いがふたりのあいだに横たわっていた。

虎鉄は猪里のほうを見なくなった。

周囲の誰も気づかない、みえない土塁が築かれてゆく。
気楽だった距離の近さが、息苦しいものになっていく。

猪里は焦燥感に捕らわれた。
不安もまじっていたかもしれない。

はじめての経験だった。
ものおじしない、人当たりのいい彼が だれかに『強く』嫌われるなど。

・・・ここまで、なあ。

おぼこい顔立ちの彼も今は高校男児、泣くほど幼稚でもなかったし、そこまで入れ込む相手でもない。
ただちょっと、目の端が沁みたようになって まぶたのふちがわずかに濡れるのを感じて猪里は 慌ててふん、と鼻を鳴らした。
あげん男 どぎゃんしょーと関係なか。

虎鉄は優しかった。それは今も変わらない。当たり前の礼儀を、他の誰とも変わらないように見せる。それが、ちくっと胸に痛かった。いま虎鉄は猪里に会うと、同じ部に在籍する者への最低限のあいさつをして、くるっと方向を変え去っていく。聞こえよがしの鼻歌さえ届くことがある。
猪里は思わず立ち上がってなにか言おうとし――鷹のように鋭い双眸と出会って、ぐっと声が詰まった。
友達になったと思った 直截に怒りを表現できるほど自分が虎鉄と仲良くなってはいないのに気づいて こころがくしゃっと萎んでしまった。
じっと見据えた紅い眼は、馬鹿にしたようにふっと逸らされた。

虎鉄という人間がわからない。
虎鉄のなかの自分が、どういう人間なのかわからない。

二つの「わからない」が猪里を不安にさせた。

「・・・猪里。」

悶々と秘した思いに立ちつくしていた彼は蛇神の声にはっと我に返った。
蛇神はいたわるような、かしずくような ふしぎな表情をしていた。
猪里はちょっと目をひらき、その静穏な視線をやや見上げがちに受けとめる。

「お主の心が、澄んでいるから。」

すっ と心が静止する。

「斯様に人智を超えた業が為せるのだろう。」

猪里はすこしくちびるをうごかして、ためらうように彼を見上げた。
蛇神はおだやかに微笑して、全てわかっているというふうに頷いた。

「お主は心を空に致し 大局を見定めて、広き器で勝機を導き入れる。」

とじたつつみを紐解くように、硬質なことばで猪里のこころをといていく。

「地を選り有象を観取して、自在の心で打球の声を聴く。さしずめ其は・・・」

「『選地眼』。」

猪里がつるんと目をみひらく。水音のながれるような枯淡な声で、猪里のちからを命名した。
その場の時がいっしゅん止まり、堰を切ったようにどよっとざわめいた。

「それって、六道眼と・・・!」

牛尾が驚いてぐっと身を乗りだす。
うむ、とただ蛇神はうなずいた。
途端に周囲を取り巻いていた同輩が色めきたって、わあっと猪里に駆け寄った。

「なんだよなんだよそれーッ!!」

耳元で上がる素っ頓狂な歓声に、どきっと胸が固まる。

「すげえじゃんかオイ!猪里おまえッ 蛇神さんのあの人外シリーズと肩を並べたってかぁ!?」
「じ、人外・・・・・・」

困ったように眉を顰める蛇神に牛尾はまあまあ、と爽やかにほほえんだ。

「一段と技らしくなったねえ、『六道眼』に『選地眼』。攻守ともに役者が揃ったみたいだ。僕たちの――」

牛尾はちょっと言葉を詰まらせ、それから ほそめた瞳にそっと希望を滲ませた。

「・・・これからの十二支野球部を。」

ぱあっと、涼風のように微笑む。

「新しい仲間がしっかり支えてくれそうだ。頼もしいよ、猪里くん!」

牛尾は万感の篭もった瞳で、猪里の丸い瞳をじいっと見つめた。
ぼんやり立ちつくしていた猪里は初めて我に返ったように「えぇーっ!?」と声をあげた。
突然のことにどうしていいかわからない。
ほんとうに、先輩達が言うような大げさなものじゃなかった。
それでも希望が、みんなの夢が猪里のうえに集められている。
猪里がいつもお天気予報みたいになにげなくしていることが皆の甲子園制覇、そのあくなき夢に貢献できるという。一気に鼓動が上がり、ぐぐっと胸にせりあがってくる熱いものに目の前が真っ白になる。渇いた口を猪里は、なんとかひらいて言った。

「光栄です・・・ばい。」

ぽつりとでた言葉に、皆は顔を見合わせおかしそうに笑った。

「虎鉄くんも。」

息を呑む音。
背後に聞こえたそれに猪里も心臓が跳ね、びくっとその場に硬直する。
牛尾の目は、真剣なひかりをたたえていた。
そばで肩をとがらせる気配がする。
おたがいに、顔も見れなかった。

「近年アッパースイングはメジャーリーグに留まらず日本でも見られ始めてきたが、練達した打手は高校球界はおろか、プロの世界でもまだ少ない。」

ながれた静寂をやぶるように深く息を吸う。驚く虎鉄の目を牛尾は正面から直視し、言った。

「虎鉄くん、君の長距離打者としての実力は先輩方にも劣らないだろう。」

臆することなく、周囲にも憚らず、毅然として言い切った。

「おべっかやご機嫌取りじゃないよ。」

瞠目した虎鉄たちのさぐるような視線に牛尾は、勘違いしないでね、というふうにちいさく首をふる。

「君たちふたりは今後、きっとこのチームの攻守の要となる。」

ぐんとのしかかる強い語気。
猪里はびくっと手をひらき、握りしめた汗をそうっと拭った。牛尾は猪里と少年を交互に見つめて語をつむぐ。

「ぼくは君たち一年生に、十二支の守護神になってほしいんだ。」

とても真摯な 懇願するようなひびきだった。

「僕らがいなくなったあとも 十二支の伝説は続いていく ・・・そうあってほしい。いつかほんとうに実力を持った者が堂々とマウンドに立てるように、僕たちはいまの艱難を受け容れて生きてゆく。」
「――そのためには、十二支野球部の魂を絶やさず受け継いでいく者が必要なんだ。」

だから、と牛尾はつぶやいた。

「君たちで手を取りあって、両極からこの十二支野球部を支えてくれ。」

血潮が熱く胸に充ち、上がってゆく鼓動に猪里は思わず吐息をついた。
わずかにうるめられた瞳が、自分たちにそそがれている。真正面からじっと、みまもるように

野球の神様が、君たちを見ているよ。

咎めるでもない、繊細に細められたひとみの、いのるようなまなざしが虎鉄と猪里ふたりを見ていた。
首筋に視線を感じる。しずかに燃える紅い瞳が、じっと自分を見ているのに気づき。

猪里は、こくんと唾を飲み込んだ。







桃いろのパステルカラー、黒茶のセピア色。ひらけた店内を暖色の調和が明るく魅惑的にひきたてている。ギンガムチェックのシャツを着た店員がいそがしそうに歩き回り、華やかにおめかししたケーキの群れが純白の皿に誇らしげに並んでいた。クラッシュゼリーが水晶みたいにのって、苺の鮮やかな紅色に映える。口に入れればぱちぱち弾ける青赤のキャンディが、しぼったクリームのうえにサファイアやエメラルドみたいにちりばめられていた。
虹色に彩られた開放的な内装の手前に奥に、女子高生や短大生の一団が黄色い声をあげながら弾けるようにおしゃべりしていた。
オレンジピールのほろにがい橙 虎鉄はちょっと眉をひそめて、「このいいにおいGa味も酸っぱくないとEーんだけどNa」とか「でもNa 肌が黄色くなっちまうらしーShi」とか考えていた。
物陰に隠れながら、なぜか若干横柄に 見下ろすように立っている。
白蛇みたいに長い腕を、どっかり組んでななめに傾いだ立ち姿は、場と迷彩服のミスマッチを差し引いても小憎らしく、粋だった。
こんな奇天烈な格好でおしゃれのつもりはさらさらないが、どんな時にもしぜんと、伊達男の風采を露出させてしまうのが彼だった。シャープな横顔は秀麗さをもって、一見つめたい印象を与えるが、笑えばたちまち八重歯のうえにあどけない愛嬌がのぼるのを少女達は知っている。
ある種の洒脱さとほどよく力の抜けた均整の肉体 内なる自信と驕慢が彼の外形をふてぶてしく飾っている。
柔軟な肢体をかたむけたその視線の先には、つやのある灰茶のちぢれ髪があった。
ぷうんと薫るココアやバニラや果物の、みずみずしい光沢をもったフレーバー。
猪里は丸っこい鼻をひくんとうごかし、これ以上ないほどおおきく目をひらいて 石のように硬直する。
あー、と微笑ましいものをみるように、虎鉄はふわっと口元をほころばせた。遠目に映る姿にも、おそろしい感動と衝撃が襲ったことは明らかだった。
彼はその牧歌的なうれいのない表情に、全身うちふるえるような感動と驚喜をあらわしていた。
泣きそうな顔になって、口元を押さえる。

「・・・こげん」

飾りけのない声が、ぽつりと落ちる。

「こげん夢のようなとこがあるとや・・・!?」

呆然と立ちつくす少年に明美がくねくね身をよじってハートを飛ばす。

「んもーッ猪里キュンウブなのね!カワイイ〜v」

ガチムチの太股で少年の下肢に抱きつきキスしようとする彼女の唇を虎鉄が投げ縄で締め上げる。
「・・・ごうッ!?さ、三秒ルール、三秒ルール!!!」
(何が三秒ルールDa!!!)
猪里ははらはらとこぼれる涙を右手に受け、目頭を押さえる。
「明美ちゃん ・・・俺とデートしたいって場所が、ここなん?」
「エエそうよっ!」
「・・・これぜんぶ。食えると?」
「もちろん金払えば二時間、自由に食べ放題でございまぁっす!」
「明美ちゃん!!!」

突然の大声にぎょっと固まる明美の肩を、少年がうるんだ目でそっとつかんだ。

「ありがとう。」

「俺、知らんかったよって。こんな、甘いきれいなもんが、好きなだけ食べられるぱらいそがあったくさ」
「・・・ぱらいそ?」

猿野はぱちぱちまばたきして、「はあ」といくぶん呆れた声を洩らした。
いやーそりゃ俺だってこんな店に入りゃあ女子供よろしくウキウキしちまいやすがね。
スバガキいたらうるさそうだな、と一瞬頭を掠め ネズッチューなんかもテンション上がりそーだ、きょろきょろ見回してリスみてーに・・・モミーも一瞬でスイーツ共に混じっていくからな。音符くんもほっぺセンパイ並にほっぺ真っ赤にして――釈迦のような微笑をうかべる猿野の頭に菓子を捧げた少女達にもみくちゃにされる犬飼が浮かび、「ゲロ犬は床でパン屑でも舐めてろッ!」と口走った。
(ヤベッ 思わず素が・・・!)
盛大に漏れた大音声の独り言に慌てて猪里のほうを窺い見る。彼は明美の豹変に気づきもせず、甘味の群れに陶然と指をくわえ、ぽーっと見惚れていた。

「・・・あらら」

お菓子に浮かれる同輩の姿を目にうかべ、眼前のなんら遜色ない一つ上の先輩のはしゃぎっぷりに苦笑する。
喜ぶっても、限度があるだろ。
そうはいっても自分が連れてきた店にここまで喜色満面でよろこばれ、悪い気はしなかった。
大手スイーツビュッフェ専門店、この場所へ猪里を誘導することは虎鉄の提案だったがそれは充分効を奏し、すっかり彼を夢中にさせている。
(やりましたよキザトラ先輩!)
ニッと改心の笑みをうかべ振り向くと虎鉄は心、ここにあらず。

「スイパラつったらヨモギ一択だRo」

滑らかなもちもちの白玉をスプーンでつりっ つりっと何十粒も小皿によそい、ニマァッとご満悦の表情でつぶあんをデコレートしていくアーミースタイルの男に周囲の視線が集積する。が、それにも頓着せず今度はチョコフォンデュの滝へ「マシュマロ・・・サンダー・・・スラッシュ!」と小声で呟きながら楽しそうにフォークを突っ込む。
猿野はフウッと溜息をつき、やれやれという顔で猪里に向き直った。

「・・・ほんとにステキなお店ね!アタイ猪里キュンと来れて幸せだわ〜」

彼女がデレーッと媚びつけば、猪里もほわっと口許をゆるめて、とろけるような笑顔をする。

「なかなかゆっくり過ごす機会がなかったけん、明美ちゃんに会えて嬉しか」

壁際の二人席に席を取り、提げていた荷物を脇に置いてほっと息をついた。

「早いものねぇ、大会が始まると!時の流れが速すぎてアタイ貧血起こしそうっ!」

くらっと倒れる身振りをした彼女に、猪里はおかしそうに笑った。

「明美ちゃんが倒れたらおおごとやねぇ。しょんなこつなりよったら、俺んとこの野菜ば毎日お見舞いに持っちくるけんね!」
「あ、ありがと猪里キュン・・・」

生ピーマンの味を思いだし、げっそりとうなだれる。このごろ怒涛の試合続きの毎日に慣れきって、スイーツ店など来る機会もなかった。明美は「おああーッ!」とのびをして、感慨深そうにぼんやりと天井をみあげる。

「華武との練習試合ももーどんくらい前になるかしら。昨日だったみたいな気もするし、何十年も昔みたいに・・・」

『華武』の名を聞いたとたん、猪里の眉はけわしくひらかれた。明美は驚き、無意識に背筋を正す。猪里はじっとその両眼を見て はっと気づき、脅かしてしまったかと申しわけなさそうに眉をさげた。それでも、悔しそうな声の響きは変わらなかった。

「華武に負けた時ははらわたが煮えくり返ったばい。部内戦で負けた時と、勝るとも劣らんくらい」
「・・・あん夜は、よう眠れんかったとよ」

部内戦。もはや懐かしく感じられるほんのちょっと前の事の話に、猿野は目を丸くする。華武の奴等に受けた屈辱と、あんときの試合が、同じくらい?彼には猪里の語気が、いくぶん奇異に感じられた。

「猪里キュン穏やかそうなイメージあるけど・・・そんな悔しかったんだ?」

少年は大きく頷いて、への字に唇をむすんだ。

「悔しかったとよ!あんとき鹿目先輩が叫んだんはっ」

猪里はすうと目をほそくする。

「・・・俺たち二三年も皆、ちこっとずつ思ったことやと思っとう。」

猿野は真顔になって唾を飲み込んだ。十二支の先輩達の葛藤が、猪里じしんの口から語られようとしている。思わず身を乗り出して目を合わせると、猪里のそばにひっそりたたずむ人影に気づいた。

(・・・お?)

いつの間にか戻ってきて少年の背後についた虎鉄が、渋い顔で二人を見下ろしていた。
足取りも軽やかにスイーツを漁っていた彼だが、いざ口に入れる瞬間――『それ』を思いだし、がっくりとフォークを下ろした。情けなさそうに下顎をおさえ、「Ah・・・」と恨めしい声を洩らす。忘れたころに痛みだし、思いだすたび疼きだす。じくじくぼやけた痛みを訴えていたそれは、だんだん腫れが酷くなってきて、骨の上でぎしぎし軋んだ。こんなつらい場所は早く飛び出したいが、猪里連行計画が成就しない限りそれもできない。なんでオレはこんなとこ選んじまったんDa。虎鉄は頭を抱えた。
こういう情けないことが、最近は何度もある。そのたびに虎鉄は涙をのんで大好きな甘味から目を背けた。仕方なく戻ってきた彼はだいぶ青褪めた顔をしていて、猿野はその強張った表情を不可解そうに見上げた。
当の猪里は、まったく気づく様子がない。

「主将達はだてに二年間、控えに甘んじとったわけやなか。」

少年は、じぶんのことをまじえない口調でつづけた。プライドかもしれない、と猿野はぼうっと頭の隅で思った。謙虚さもあるだろうけれど。

「黙っとったばってん、紅白戦の最中、俺はずっとハラハラしっぱなしやったよ。」
「猪里キュンも・・・!?」
「おお。」

猪里はぐんと頷く。

「知っとーちゃろうが、俺や虎鉄達の代まで、十二支は年功序列のチームやった。下級生の甲子園出場なん、夢のまた夢。」

彼はゆっくりと、厳粛な表情でつづけた。

「主将や蛇神先輩らは、自分達が三年になったら必ずこん状況ば変えてみせる、力があれば必ず俺達にも登板のチャンスば与えてくれる 監督が首を縦に振らんでも、そのぶん自分らが割りを食いよーとも。・・・そう約束してくれたとよ」

猪里は熱く頬を燃えたたせ、とん、と心臓の上に手をおいた。

「胸がカーッち 熱くなった」

猿野は息ひとつせず、猪里の声に聞き入っていた。

「進級したときは嬉しかったとぉ これからやっと、ほんまもんの試合ができる。鹿目しゃんも三象しゃんも、表舞台に立てるんや!って」

そのときの気持ちを思いだし、にったりと目尻をさげる。

「虎鉄なんか舞い上がって、襲いかかられたばい。」
「え」
「ちかっぱテンション上がりよって、」

猪里が愉快そうに目を細める。

「始業式で『甲子園Daー!』叫んで思いっ切りクロスチョップかましてくるけん、思わず襟首ば取っち投げ飛ばしてしもた。」

『OUCHッ!』とA組の列まで飛翔した虎鉄の身体は犬神家の格好でグラウンドにゴシャッ!と着地し、同学年の聴衆にくすくす笑われた。

「カワイイ!ホントに嬉しかったのねぇv」

くすりと乙女チックに笑い、明美は向かいの男に意味深な目を投げかける。当の本人のまえで恥ずかしいところを語られた彼は、おもてを赤くして俯いた。

「そこへあの部内紅白戦たいっ!!!」

突然の剣幕に虚を衝かれ明美がギクッと飛び上がる。猪里はしみじみと目を閉じて、ふかく息を吐いた。

「あん敗北はばりショックやったって。」
「そ、そうなの・・・」

分厚い付け睫毛でわしわし瞬きする。

「あげん意気上がった時に一年にレギュラー奪われたっちゃあ、そら腹かくと!」

はげしい語気に、猿野はどきっと胸を固めた。

「あんとき監督が二軍一軍の成績も加味するっち言わんかったら、猿野達をぎゃんにくずしてぼてくりこかすとこだったばい!」

(なんか知らんがこわい響き!!!)

「は、ハハハ・・・」

ぽかんと口をあけ、気まずい顔で汗を垂らす。

「ちゅーのは冗談やって。」

おどかすように上げた眉を、下ろして猪里はにこりと笑う。彼なりに女の子をからかってみたらしい。

「ばってん、そいくらいん気持ちはあったんよ」

今は遠い出来事のように、少年はふっと目を細める。

「・・・主将の言葉で、大事なもんば忘れんと 取り戻すこつのできよった。」

猿野も遠い目をして、なぜだか照れくさそうに、嬉しそうにうなずいた。

「当たり前だけど 野球 好きなんすね・・・」

先輩達、と言いかけてあわてて口を塞ぐ。

「イエあのッ!猪里キュン達・・・ねッ?」
「おう、野球は好いとー。」

よく考えたら『明美』にとっても先輩達なのだから、慌てなくてもよかった。それでも猪里は素直に笑顔をうかべ、野球愛をまっすぐに口にする。顔を見合わせたふたりは、どちらからともなくほほえんだ。

(・・・なんかいいなぁ、こういうの)

猪里のおだやかな顔につられて、猿野もゆったりからだの力が抜けていく。
(いやいやいや、浸ってる場合じゃねえぞ俺!?)
当初の目的を思いだし、ぶるるっと首を振る。ちゃんと任務を果たさねえと報酬のお宝DVDも貰えねえ。あとで強制連行すんだから、今のうちヨイショして警戒解いておかねえと!
頭の中を整理して、『明美』を媚び媚びモードに切り替える。

「ねぇ、こないだの試合9回表の猪里キュンの攻撃!大逆転ホームランすごかったわぁ〜v」
「あ、おう」

猪里はすこし小声になって、照れたように頭を掻いた。観とってくれたんやね、ともじもじくちびるをうごかす。お世辞とか、ちいさなことへの賞賛なら彼もいやぁ、と自然体で受けることができる。だがほんとうに自分が大きな勲功を立てられたと自覚している事を、正面切って絶賛されると、猪里は言葉少なになってしまう。素直によろこびを表現するのが、なんだか恥ずかしいのだ。

「もーアタイメロメロになっちゃったvあの状況で、上空にスタンド風が吹いてるなんてよく分かったわよねぇ?」

やや個人的な関心をもって、興味深げに先輩を覗き込む。

「湿度が安定しとったからね、南風とかち合っていい具合に折れ込んだとよ。・・・それに、」
「部内戦ときと、同じ風やったから」

うるおったひとみをして、また遠く思いを馳せた。

「ふぅーん・・・」

にやにや笑う明美に気づき、はっと顔を赤らめる。

「・・・やけん、そんだけ思い出深かったんよ!一年軍と互いに、全力のちから初披露みたいなもんやったし!」
「それは分かるわよぉ?アタイだってすぅーっごく感動してたんだから。・・・みんな凄かったもの!」

得意そうに肩を広げ、彼女はじっと猪里を見る。

「主将もナムアミ先輩もほっぺ先輩もフランケン先輩も・・・それに猪里センパイも。『こんな奴らに敵うのかよ!』って 正直ガチで尊敬しちゃったわ。」
「・・・虎鉄先輩も。」

すこし躊躇ってから、明美は最後のことばを付け加えた。
虎鉄は微かに身じろぎし、腕を組みなおした。彼は柱の陰にもたれ、猪里と向かい合った明美にさらに向かい合うような位置で隠然とたたずんでいた。そのため彼は、そのとき猪里の目に映ったわずかな表情の変化を、捕らえることができなかった。

「明美ちゃん」

「あいつのことは、どう思っとうの?」

虎鉄が眉を歪ませた。
うつむきかげんな猪里の声の響きに、べつな意味を読み取ったから。
さっと暗んだ少年のまなざしをちらと見て、明美は含みありげに片目を閉じた。

「んーマジバナ虎鉄キュンはぁ、アタイの好みじゃないかもぉー。」

ツッと舌打ちが聞こえるが余裕しゃくしゃくであごを反らす。

「そうなん?」

こころなしかすこし弾んで聞こえた声が、虎鉄にはひどく痛かった。

「だいたいNaとかZeとかウザいしぃ、人のことコキつかうしぃ、世が世ならルー大柴と義兄弟の杯を交わしてたわねあのヒト。消火栓を見るたび消人栓に加工していくカンブリア紀並のセンスもキライ!」
(交わさねえし冤罪Daッ!!)
「えっアレ虎鉄やったん!?」
(信じないDe猪里ちゃんッ!)
「『人の糞は持ち帰ってください』も全てカレ・・・吐き気をもよおす邪悪よ。」
「そうなんや ・・・明美ちゃんの好みや、ないんやね」
「ええ。今宵、月が見えずともゼッタイ付き合いたくないタイプね。」
「試合中も脅威のフライ率で打者界のガングロ犬と呼ばれるヘタレっぷりを披露してくれる虎鉄キュン先輩には明美もホトホト呆れてるの。」
ハの字に眉をさげ、くねっと小首をかしげてみせる。
ギリギリ歯軋りする音を耳にしながら明美は思わせぶりに胸をそらした。
「でもあの、」
『彼』はニヤリと口を曲げる。

「ハラの据わった覚悟だけは、本物の男だ。」

吊り上がった三白眼が、大きくひらかれた。猪里は息を呑んで、黒い瞳をじっと見つめる。

「・・・華武校戦で、」

引き上げた口角を下げ、猿野は真面目な顔になってつづけた。

「アウト食らいまくってみっともなく醜態さらして、上位打線のバッターとしちゃありゃ涙モンですよ。」

じっと猪里の目を見て話す彼に、虎鉄の表情は見えない。

「あいつは『責任感のある男だ』って まえ言ってましたよね、猪里先輩?」

虎鉄は胸を衝かれたように、組んでいた腕をびくっと浮かせた。

「おれもそう思います。」

猪里の真剣な目に、負けないぐらい強い目で見返した。

「自分の務めを果たそうと思って、本当にキッカリそれを果たせる奴はなかなかいません。」

彼はちょっと目を閉じて、先の戦いを思いだすようにした。上級生下級生全員の、抜き差しならぬ苦闘の末につかんだぎりぎりの勝利の数々。どれも記憶にあたらしく、鮮やかな色彩で脳裡に焼き付けられていた。

「武軍戦であの巨人の大弩砲相手に3ベースヒットを決めて」
「明嬢戦では決定的な勝機を引き込んでくれました。・・・つってもアレはボーナスみたいなもんすけど」

ごくっと唾を飲み、くちびるを湿す。

「それだって、地力だけで出来たわけじゃなかった。あの力も、先輩んとこの畑で血の滲むような特訓をこなして、つかんだんでしょう?」

彼は静かな表情をして前を見た。虎鉄は顔を下げ、じっと息をしていた。弱い照明が足元にちいさな影法師をおとしている。バンダナの下の表情は読み取りづらかった。

「あーやって悪戦苦闘して 死に物狂いでてめえの弱点直そうとしてる『先輩』がいんの見ると、」

彼はすこし、言葉を切った。

「うまく言えないけど ・・・安心するんすよ」

はっと口を開け、息を呑んだ。

「上にいんのが そういうの 後輩にはね?」

彼は悪戯っぽく頬を引き上げる。猪里はちょっと目を上げ、黒い瞳と視線を合わせた。

「お世辞もありますがホント 助けられてるんです、そういう存在に。クリーンナップん中でも、蛇神先輩や主将と同じくらい。」

「普段あんな女のケツばっか追いかけてるいけ好かねぇキザヤローですが、大ボラ吹いても最後にゃあーしてチャキッとケジメを付ける。」

「そういうところは、尊敬してます。」

猿野はおどろくほど清潔な瞳で言い切った。
猪里はおおきな目をまっすぐ彼にむけ、しずかに口をつぐんでいた。
背後で少年が、蚊の鳴くほどのちいさな息を洩らした。握りしめた拳はぶるぶる慄えている。
なにかに充満した沈黙が、角ばったテーブルのうえに流れる。

「・・・って、」

「子津キュンあたりが言ってたかもしれないわね確率的にぃっ!?」

おほほほほッ!と黄色い声をあげ今更のようにどぎまぎしだす彼女に猪里は声を放った。

「あいつはっ!」

自分でもおどろくほど大きな声が出た。明美は目をみはり、まじまじと彼を見つめる。
背後で ぎし、と床が鳴った。

「あいつは ・・・気張らんでいいところで気張りよう。」
「えっ?」
「その、武軍でヒットを決めたとき。」

猪里はぎゅうっと眉を寄せ、そっとじぶんの手を持ち上げた。数度、空気をつかむように、握ったりひらいたりして 下ろす。まるで、鋭い棘で刺されているような 痛ましい表情で。
そのしぐさを見て、猿野はすべてを理解した。

「・・・ああ、」
「あの手は、凄かったっすね」

ぼそりと呟く。

「あげんケロイドのごた腫れ上がって、痛まないわけがなか!」
猪里の拳が、ばん!と大きな音を立て卓を叩いた。振動に茶器がちりちり・・・とこまかに鳴って、静寂を後に残す。背後には 音もしなかった。

「無理して悪化さしたっていけん、格好つけんとテーピングしときっちさんざん言うたのに」

言ってわずかに目を伏せる。猿野も、気まずそうに視線を落とした。

(バッターボックスに立ったときも)

「手を庇う、素振りも見せんかった」

猪里の眼は そっと中空で静止した。そこには無いなにかをみつめるように。
記憶にある、無数の彼を再生しているのだろう。
不思議な状況だ。こうやって先輩がクネトラん事ぼんやり考えてるのに、肝心の本人はすぐそば、大根先輩の後ろにいるんだから。
目を上げて映った、なかば意識を飛ばしたような猪里のまなざしに、猿野は内心そうひとりごちた。
じっさい 猪里は、虎鉄を想っていた。
猪里はいろんな虎鉄を知っている。それこそ、虎鉄の名を聞けば ・・・こころにうかべば、怒りやよろこび 締まりのない、目じりの下がった陽気なあの笑顔のかずかずを、いくらでもその胸にスケッチできるくらい。
虎鉄はお喋りだ。虎鉄の目も口も、大げさなファンキーな身振りも雄弁に虎鉄の気持ちを語る。なのに、何故だか 猪里はそれに、ものたりない と思うときがある。それはきっと、虎鉄の『くせ』だ。
虎鉄が何か隠したいとき、いつものあの、やにさがった笑顔をしない。
悪さをして親に見つかった子供のようにちょっと無言になって、謝るような問うような目をして、軽くにやつく。『ゆるしてくれ』とでもいうように、あまえた微笑をして、覇気のない軽口をたたく。この笑顔を見ると、猪里はすこしだけ不安になる。まだもっと、秘めていないか ほんとは言わなければいけない大事なことを、肝心なときに、猪里のわからない理由で。
信じていないわけじゃない。
ほんとうに深刻なことなら、きっと自分に迷わず話してくれるだろう。信頼されている自覚がある。
だがもうちょっと・・・ほかのことの前ではあとまわしにされるような一段ひくいもの それでも虎鉄には重要ななにか――猪里にはわからないなにかを、ひた隠しにして。虎鉄にとってはたいせつで、ほかのだれにも聞かせたくない、ささいなこと。
「猪里」と、なにか言いかけてやめる眼の、ゆらりと蔭る 西日のさしこむような赤色。ひどくおとなびてみえて、いやだった。
『猪里にゃわかんねーKa』、という はじめる前からあきらめた、さみしいような優しい顔を。
見るとき猪里はぎゅうっと胸が締めつけられる。『あのころ』を思いだすからだ。
言おう言おうと思ってまだ言えない。あの頃を思いだすことは、猪里にとって、ほんのかすかだが――トラウマのようになっていて。
わりとずぶとい、大胆な性根をもつ彼にも、空をつかむような風をとらえるようなあのすれちがいはもういやだった。かつては刺々しい、いまは優しい虎鉄の 本当にさりげない気遣いからでた、猪里にわからない行動。
もう感じたくない。いつか虎鉄が、じぶんを残してそのままどこかへ行ってしまうような、あの思いは。優しいから、思いやるから差し出す矛盾もあるのだと、猪里は今の虎鉄を見ていて思う。

「ま、」

昂ぶった息を、ごまかすように声を高くする。

「そげん男なんやからしょーがないっちゃあ 思っとるけどね」

ほうっと息を吐き、数度まばたきして、明るい目をして明美をみつめる。
さっきからなにかの衝動にうずうず体を揺さぶっていた彼女はワインレッドの唇をにやりと蠢かした。

「そうよ、あの男ほんっとにガキなんだから。」

んっ ンン゛ッ!と右の拳を近づけ、野太い低音で咳払いする。思わせぶりに目を吊り上げ、大きく息を吸った。

「『このまま逃げんのか軟弱ヤロー。』」

ぴくん、と切れ長の目が反応する。猪里は戸惑った顔で明美をみつめた。

「『女は泣かす、勝負は途中で逃げる オレのライバルはとんだ腑抜けヤローだったんだNa。』」

芝居がかった調子で声の昂ぶりも、語った男の斬りつけるようなまなざしも、忠実に再現する。張りのある低音に、絡みつくような喉の掠れ。

「『一生そうやってろ、クソヤロー!!』」

びりびり響く声に、あっけにとられた猪里はぽかんと口をあけた。

「・・・って。」

キザな身振りまでつけて演じた男の、苦々しく細められた目を見、むふふ・・・と笑う。
いまいましげに睨むも、鋭い眼光にますますニタァッと口を緩め、猪里の耳元に唇を寄せた。

「・・・知ってる?猿野くんが辞めたとき」

いわくありげに少年の瞳を見つめ、ぱちんとウインクする。――虎鉄キュンは。

「カレのこと『ライバル』って言ったのよ!」

猪里はひょっと目をみひらく。虎鉄はさあっと頬に血がのぼり、苛立たしげにチッと舌打ちをしかけ、慌てて止めた。

「一コ下のぉ、野球はじめたてのド素人だった猿野くんにぃ、スッゴイ真剣な目で!」

そのことばに、当惑ぎみだった猪里のひとみが熱を帯びだした。未知の星を発見した天文学者のように、薄茶の眼がひかりを湛える 好奇心と、なにかの欲求で。

「・・・彼的には、どやしつけて喝入れてくれるつもりだったんだろうけどぉ」

すこし小さくなって、もじもじと手指を絡ませる。

「その時の虎鉄キュンの、猿野くんを睨みつけた目っ!」

ぱんと膝を叩いて、ずいっと猪里の目を覗きこむ。

「ギラッギラ燃えてたから、ビックリしちゃった!」

猪里は驚いたように目をひらき、ふわっと瞳をうかせた。ライバル、という熱情的な単語がへんに頭の隅に引っ掛かる。
凪の悲しみを伝え、十二支野球部の思いを率直な怒りで代弁した深緋の眼。直情、熱血、赤裸。平素の軽妙な構えとは少しだけちがう印象を与えたそのひとみ 皆の親身なことばとともに、彼の叱咤は猿野のこころに勇気を与えた。いつもは言わない、飾らない真情を吐露した猿野はなにやらかなり気恥ずかしく、だが堂々と雁首をあげ笑った。その誇らしげな表情を見ていたら、あとで小突いてやろうと思った気も失せてしまった。虎鉄は、落ち着きなく足摺りした。

「あん虎鉄がねぇ・・・」

猪里はふかく息をついて、しみじみとまばたきした。ふっくらした頬にはかすかに赤みがさしている。
少年は無意識に、そっと心臓のあたりを撫でた。自分の知らない彼を、たいせつに胸のアルバムにしまおうとするように
彼はわずかに首をふり、白い壁をぼうっとみつめた。その瞬間、背後にいた虎鉄の目に、猪里の瞳が一瞬だけ映った。

「俺も 見てみたかったとよ」

彼はふんわりと笑った。猿野の目にはその顔に、ほほえましい気持ちしか読み取れなかっただろう。
だが虎鉄にはわかった。虎鉄にだけ にっこりと弧を描いた少年の瞼に、べつな感情がうかんでいたこと。
よろこぶような、微かにさみしさものぞかせたその表情に 虎鉄は大声で叫びたくなった。

余計なこと言うNa、猿野。

こいつの知らないオレを、おまえの口から聞かせるNa。
むきだしになった自分の素を、猪里に知られるのが何故だか焦る。こんな ささいなことに。
かっと背中が熱くなり、もどかしい汗が着込んだインナーを濡らしていく。
こいつにこんな目をさせるな。
咎めるような激しいまなざしが猿野を打つ。
だが、分かっていた。こんな目をさせているのは猿野じゃない。自分なのだ。
虎鉄は猿野をみとめていた。野球選手として、ひとりの男として。
認めていたからこそ、彼の退部には強い怒りが湧いた。
斜に構えながら、バカだシロートだとかるーく揶揄してたが、岩に齧りつくようにして血みどろになって弱点を克服していく後輩の姿に、虎鉄はいたく心を動かされていた。野蛮人同然だったペーペーの一年坊主が、常盤樹の若葉のごとくめまぐるしい成長を遂げていくさまは、胸が躍った。
そして思った。自分達の成長も 先輩達は、こんな気持ちで見守っていたのだろうかと。
あとさきも考えなかった一年前の、無軌道で奔放なじぶんを思いだす。今だって奔放といえば十分、いや十二分に磊落で奔放といえるが、虎鉄にも言い分はある。『あのころ』と比べ、虎鉄は格段に大人になった。
今考えるとしょうもねぇワガママも、愚痴ったらしい幼い不平も貧弱な自己本位も、いくらかは克服し 『なんであの人が評価されねえんだ』とか『なんでオレが無視される?』とか『分かりきったこと言うんじゃねえ』とか へちゃむくれの不貞腐れだったあのガキは、今や十二支の雄軍となり、堂々と一塁を護っている。
しっかりした気構えを、弾力のある強さを虎鉄は身につけた。そう自負するいっぽうで、思えば無礼なこともしたしずいぶん協調性のない、ガキっぽい態度もとっていた それを思って今更のように虎鉄はむず痒くなった。どうしてオレは、こんなことにも気づかないんだろう。
胸の奥から、突き上げてくる。
彼は背中を打たれたように、一歩踏み出しかけた。途端、脳裏に重いドリル音が蘇り、ぞぞっと背筋が寒くなる。少年はぎゅっと目を瞑り、歯噛みした。突如意識を駆け上がった恐怖に背中がきいんと凍りつく。
こんな感情は話せない。猿野にも――猪里にも。だからオレはこうしてここにきたんDa。――なんで?
吊り上がった目を、眼前の淡い縮れ毛にぼうっと据える。

どうしてオレは猪里の、後ろで。

周囲の喧騒が戻った。かちゃかちゃとフォークと茶器の擦れる音があたたかい光を投げている。甘いにおいも、ふたたび鼻腔へ流れこんできた。

「なんにせよ、根性のある一年がきてくれてよかったばい」

明るさを取り戻した猪里の声がぼうっと耳を撫でる。

「あら俺・・・猿野くんたちのコト褒めてくれるの猪里キュン?」

人一倍褒められるのが好きな彼は息を弾ませて先輩を見る。そらぁね、と猪里もにっこり頷く。

「下から有望なんがのぼってくると、先輩としてはうれしいんよ。すごく。」
「へへぇー・・・なかなか含蓄のあるセリフっすね、猪里センパイ?」

めずらしく年上らしい態度を取る彼にからかうように目配せすると、猪里は照れるでもなくことばを返した。

「俺たちも、そう言われたんよ」

遠い目をして、ふっとほほえむ。
そのなにげないことばに、ひとり虎鉄は 雷に打たれたように立ちつくした。
押し込めていたあの頃の記憶が、楽しさだけでなく ほろ苦いさみしさをつれて蘇る。

ああ猪里。

そういえばオレは、ずっとおまえに冷たかった。


おさない自分がよみがえる。
うっとおしくて苛立たしくて、心配されるのがなにより嫌だった。
猪里の すべてが。

(なんでこんなやつと出会ってしまったんだろう?)

猪里のやさしさが嫌だった。
そんなプライベートのことまでなんで口出しされなきゃいけない?
「野球部員」の距離を越え、まるで家族みたいに気遣ってくる彼が、たまらなく苦しい。
オレ達は、そこまでの仲か?言ってしまったあとの猪里の表情を見るのが嫌だったから、言えなかった。
ほっとけよ オレの性質なんだ。
傷つけるとか、わかってる。分かってるけどほしいから 必要だから、求めるんだ。
冷酷だ?言ってろよ。オレの気持ちも分かんないやつに、言われたかねえ。
オレを気に入らないなら嫌えばいい。どうせ嫌いなんだろう?不潔だとか薄情だとか、あのもの問いたげな目の奥で、蔑んでるに決まってる。けがらわしいとか 虫も殺さねえような面して。オメーとは棲む世界が違うのSa。

『オレのため』とか、嘘に決まってる

虎鉄を好きになってくれないひとを、どうして虎鉄が好きにならなければならない。
離れよう それがオレ達にはいちばんいい。

あのときはなにもみえなくって じぶんのこころさえも分からなかったから
不自然にいびつにぬくもりを撥ね返した。さみしくってせつなくて ほんとうにほしいものに、気づけなかった。

それから成長できたと思っていた。

そばにいること。あたりまえに、ふかく気遣ってこの関係を護ること。
猪里が笑っている。それだけでよかった。虎鉄の胸にいままで知らなかったよろこびがおとずれた。
猪里の目が、憧れをもって自分を見る。そのことが虎鉄をあきれるほど傲慢にした。これでいいんだ、オレ達は。
もっともっとオレを見ろ。
賞賛してくれ。
格好いいって、男らしいって。
おまえの口から、言ってくれ。

猪里。

窓の外で、びゅうと強い風が木々を薙ぐ。
猪里はわらい、猿野がおどける。

虎鉄はうしろに立っている


・・・あの頃と、なにも変わらないのかもしれない。





水玉もようの壁紙に、ライトブルーの花窓をあしらった小鳥の額縁。ポップで瀟洒ないでたちは、おとぎ話の世界みたいだ。どこからかバラの香りまでかおってくる。
優雅なミュゼットの流れる店内の一角に、西洋人らしき初老の男性がフルーツロゼにすうと鼻腔を楽しませ、満足げに口端を上げた。紅茶の香りにうっとりと無意識に右へ目を移した刹那、彼はギョッと目を瞠った。
「すっかり話しこんで、食べるの忘れちゃってたわv」
大皿にうずたかく積まれたシュークリームの山がみるみるうちに標高を減じる。餓狼のごとく喰らいついた少女が三つ編みを振り乱し、甲高いおめきを上げた。両手でわっしわっしと掴み取る、カットドレスのスリットから覗く赤黒い腹筋が小悪魔チックに扇情的だ。隆々と巌のように盛り上がった二頭筋をてからせ、シュミーズの肩紐をもどしもどし次のスイーツへ手をのばす明美の姿はSAN値を卸し金でゴリ削られるレベルの美貌を放っている。

「おっ パフェかぁ、いいねぇ!」

ジュルッと涎を啜り、大口を開け陳列台に顔を突っ込む。
キュオォォォと音を立ててコーンフレークを掃除機のように吸い尽くす明美に、虎鉄は凝然として慄えあがった。
(お前はカー○ィKa・・・!)
ひとしきり胃に詰め込むと満足したのか彼女は骨太な掌をグワッと開き口に当て、大きなゲップをして近くの椅子にどかっと座り込んだ。
(・・・アイツ目的忘れてねえKa?)
シーッと楊枝でほじくりながら悠々とふんぞりかえる明美の姿に虎鉄は汗を垂らす。
今日のこの日、PM5:00に予約を取った医院にたどりつき、治療を終えねばならない。
・・・ひとりでは、無理だ。
何度ひるんだ心に鞭打っても、あの無機質なエタノールの芬々とする空間でガリガリガリ・・・とエナメルを削る音は――聞くに堪えなかった。恐いものはしょうがないだろう。心に叫んでキッと顔をあげ、震える唇をひきむすぶ。治療しなければ、野球部だって。
そのためには猪里が必要だ。

・・・必要なんだ、猪里Ga。

こんなことで必要として 騙すようなことをして。背筋をつたう罪悪感に、虎鉄はぶるっと身震いした。知らない。そんな感情は忘れろ。強く瞼に力を入れ、ひらいて明美を捜す。近くに猪里がいないのを確認し、つかつかと歩み寄って、るんたった♪とスキップをはじめた明美の腕をすれ違いざまガシッと捕らえた。

「イヤン駄目、私には孫がっ!!・・・あ、マリファナさん。」
「『先輩』を付けろYoッ!!」

麻痺してツッコミがおかしくなっている虎鉄にぐいっと肩を引かれ、うおっと声を上げ猿野は奥に引っ込んだ。愛らしいアコーディオン扉の隙間で男二人がひそひそ密談を始める。
(分かってんだろうNa、作戦?)
(ドヒュフッ 何でござるか虎鉄一等通信兵?拙者は目下猛臣氏捕縛任務進行中でござるよドゥフッ!)
無視Da無視・・・と口中で呟く。
(目隠しだYo目隠し!猪里に!!)
(先輩そういうシュミが・・・!)
(違うわッ!!だから『明美』のオメーがあいつに目隠ししてカワダ歯科連れてって、オレにバトンタッチするって計画だろうGa!)
狼狽して目を白黒させる虎鉄に、猿野がニカッと笑いかける。

「わかってますって!だーいじょぶっすよ、俺と大根先輩とのラブラブ度、ぐんぐん上がってきてますから!」

必ず成功してみせますよ、と歯を見せる猿野に虎鉄はまぶたを伏せた。
この店に来てから くらい靄のようなかたまりがずっと喉のところにつかえていた。
猪里がふうわり笑うと、猿野は嬉しそうに何か言って。猿野のぶっとんだ発言に猪里が驚いたような目をする。
・・・ああ。
虎鉄のことが語られると さみしそうな表情に、うかんだひとみがわずかにくもる。猿野の大胆な言葉にまた笑顔を取り戻したりする 胸の奥のもやもやが、すこしずつ増幅して 自分が何を望んでいるのか 把握するのも難しいぐらい虎鉄の気持ちと頭はこんぐらがっていた。肩をおとして、やぶにらみで彼を視る。
(・・・まあ、分かってんならいいけどYo。時間もねえんだからチャッチャとやれYa)

「へーへー、わかりましたよっと!」

うるさそうにバッと扉をぬけだし、猿野はその足でテーブル席へ向かう。

「ねぇ猪里キューン! ・・・あれ、どこだ?」

きょろきょろ見回すと目的の人物はすぐに見つかった。

「んん・・・ここんレタスは及第点やね」

いかめしく目をとじてうんうんと頷き、親指でつるっと唇をぬぐう。
ミネラルサラダを口いっぱいにふくみ、ほっぺをもしゃもしゃうごかして小動物みたくぱちぱち瞬いていた。

「おいおいセンパ〜イ、スイーツ店でまでお野菜まっしぐらっすかぁ?」

にんまり笑って覗き込んだ猿野は「・・・ドレッシング使わねえのか」と呆れ顔で見下ろし、猪里の頬を人差し指でむにっと突いた。

「女の子待たせて自分だけ楽しむなんて、いけないんだゾ☆」
「あっ・・・ごめん明美ちゃん!俺つい夢中になってしもて!」

猪里は慌てて口元を拭い、立ち上がってそっと明美の手首に手を添えた。紳士なんすね、と猿野は内心笑いをこらえる。

「パフェ食べましょパフェ!あのストロベリーヨーグルトのやつ、猪里キュンと一緒に食べたいなv」
「なんねそれ、ちかっぱうまそーやん!!行こ行こっ!」

猪里は目をキラキラさせて彼女の手を引き、そちらへ走ってゆく。
虎鉄は 早く終われ、と思いながら二人の席から身を隠した。
(パフェ、Ne・・・)
なんか作戦でもあんのKa?
考えていると、すぐに猪里たちが戻ってきた。猪里はうっとり手元のグラスに見入り、ほうっとためいきをついた。

「こん苺綺麗やねぇ・・・ばりうまそーよ!!」
「猪里キュンの目に適うなら、相当ね?」

くすりと唇に手を当て、妖艶に笑う。

「おう!ヘタが元気で、ピンピン反りかえっとるよ!硬めで光沢があって、根元から齧りついたらきっとたまらんねぇ。」
「やだ猪里キュン、大胆・・・!」
「へっ?なにが?」

明美はフフ・・・と意味深に猪里を見つめ、野卑な笑いをうかべる。

(何想像してんDaテメーHa・・・!)

虎鉄は目を吊り上げ、さっと右拳を振り上げた。阿修羅のような形相に猿野は慌てて話題を修正する。

「さ、さぁ頂きましょ!明美恋人食いしたいなぁv」
「『こいびとぐい』・・・って、何やの?」
「んもう、いけず!ふ・た・り・で、『あーんv』することに決まってるでしょ!」
(んな言葉存在しNeーYo・・・)
猪里は明美の言葉を理解するなり「えぇっ!?」と狼狽した声をあげ、耳まで真っ赤になった。

「こ、こんな所で いけんよ、明美ちゃっ・・・」
「えぇー?どぉしてぇん、猪里キュンのいじわるぅーっv」

強引に猪里のグラスからソフトクリームを掬い、はい!と口の前へつきつける。

「そげん恥ずかしかこと みんなの、前でっ・・・!」

人目を気にしてそうっと辺りを見回し、小さくなって屈みこむ。

「さっきはアタイにピーマン食わした癖に・・・猪里キュン、オンナに恥をかかせないでッ!」

一転地を這うような声で恫喝する彼女に少年はビクッと震え、「ご、ごめん・・・」と上目遣いで謝った。きょろきょろと周囲を憚りながら、恥ずかしそうに目をとじて、遠慮がちに口をあける。銀匙にのったバニラソフトが、てろんと猪里の鼻筋に落ちた。

「ひっ!?」

肩を跳ね上げ飛びあがった猪里に、クスクス笑って二匙目を掬う。

「はい、あーんv」

猪里は必死で口をあけ、こぼれないように舌をつきだし雫を喉に受けた。
虎鉄はそのうごきを、食い入るように見つめた。

「ふぅーっ・・・!」

大仕事を終えたように少年が息をつく。恥ずかしさにぽうっと染まったおでこを拭い、恨めしそうに頬を膨らませる。

「今の猪里キュン可愛かったぁv」
「あ 明美ちゃんも高校生なんやから、アイスぐらいひとりで食べんといけんよっ!」

とんちんかんないましめをして、むうと自分のスプーンをくわえる。

「ハイハイわかってまーす!」

ざぶっと匙をグラスに突き入れ、たっぷりと掬い取ったかたまりを目の高さに持ち上げた明美が、謎めいたしぐさで虎鉄に視線を送る。
(N・・・?)
どぎつい口紅にうかんだ凶悪な笑みに、さっと背筋が粟立つ。何かの予感に駆り立てられた虎鉄は思わず猪里のほうへ腕を伸ばしかけた。いつまでもスプーンを掲げている明美を猪里は不思議そうにじっと見つめた。彼女はニヤッと不敵な笑みをうかべる。
(・・・ここだッ!)
スプーンいっぱいに積載された塊は口腔へ運ばれず――ぼたっと音を立て落下した。明美の両眼がカッと発光する。

「いっけなーい!ヨーグルトアイスが椅子の真ん中に落ちちゃったぞ☆」

ガバッと足を開いてスカートを捲り猪里の眼前に股間を晒す明美に虎鉄の目玉がすぽーんと飛んでいった。

「あっ・・・あれは天然魔性M字開脚、イン○ンオブジョイトイだーッ!!」

隣のテーブルの紳士が立ち上がり眼鏡を持ち上げて叫ぶ。
(ネタが古ぃーんだYoッ!!!)
虎鉄はギリッと両目を吊り上げ心中に裏拳ブローでツッコんだ。
(ってか、汚ねえモン見せてんじゃNeeeeeeeee!!!)
突然のエロテロリスト強襲に男は声なき悲鳴を上げる。
こともあろうに紐パンを着用している猿野の秘所というか恥部というか可憐にふるえる秘蜜の花芯はその布面積の少なさで虎鉄の精神にドラスティックなダメージを333連コンボで名古屋打ちした。Wow・・・と嘔吐感に悶えながら、ノドをおさえてゾンビが如く立ちのたうつ。

「うあっ・・・!」

上ずった声があがる。すこし掠れてひきつった――その背徳的な響きに、虎鉄の表情が消えた。
信じられないものを見るように、鋭い目つきでそちらをじっと見る。
猪里はかあっと頬を赤くし、うっすら涙のうかんだ目で羞恥に身をよじっていた。置きどころのない手を口元でぎゅうっと握り、伏し目がちにおろおろと瞳を泳がせている。首筋をぽうっと上気させて、もう少しで大切な何かが青春メモリーと共にポロリしてしまいそうな位置にしっかり目を据え、逸らせないように全身が固まっている。
虎鉄は呆然とその姿を見ていた。くちもとがぴくっと歪む。

「見ちゃいけん、いけんよ俺・・・!」

あまりの羞恥に両手で目を覆うも股間の硬い膨らみに吸い寄せられるように指の隙間からちらりと瞳をのぞかせ、その度にぎゅっと目をつむって赤面し、ぶんぶん首を振る。

「お・・・俺は虎鉄と違って紳士な男たい!」

余計な一言が聞こえた気がしたが目を瞑り、少年のセクシャリティに軽く絶望しながらも機を逃すまいと合図を送る。
(・・・ほら今Da!なんとか理由つけて視界を封じRo!)
ぴっと長い指を立て、急かすように振り下ろすが猿野は熱視線に気を取られて気付かない。
切れ長の目は苛々と、鋭い光を宿しだす。
(な・・・なんだこの感覚ッ!見られて見えないように目を塞がれ、なおも顔を赤らめて股間を凝視される・・・!いいぞコレ・・・結構イイっすよ猪里先輩ッ!)
何かに目覚めつつある猿野はハァハァ息を荒げ、猪里の純朴な目が自分の局部をじっと見つめている感覚に全身を滾らせている。鬼人のごとく歯を軋らせた虎鉄はなんとか己を自制し、音高く舌打ちをした。
猿野を見据える目に一瞬おそろしくつめたい光が宿る。

「・・・ひッ!?」

ぞっと背筋が寒くなる。親指をくわえて快楽に打ち震えていた猿野はばっと反射的に振り返り、その燃えるように赤い視線にさっと鳥肌を立てた。

「ヤ・・・やだエッチ猪里くんの馬鹿ッ!乙女の股間☆見ちゃダメッ!」
「ひゃぁッ!?」

氷るが如き冷酷な目、硫酸が背を舐めるような感覚に動物的な恐怖を感じた猿野は猛スピードで計画を一足飛ばしで実行に移した。黒いバンダナを目に引っ掛け、解けないようぎゅっと締める。明美の痴態に背筋がじゅっと熱くなり、息もつけなくなった猪里のからだは豪腕でたやすく拘束されてしまった。

「あ、明美ちゃっ・・・!?」
「ほどいちゃ駄ァ目、猪里キュンっ!」
「なっ なにするん!?これ、外してほしか!」
「明美ね、これから猪里キュンを、とおっても素敵なトコロへ連れてってアゲルv」
「素敵なところ・・・?」
「そう!このお店よりも、ずぅーっとステキなトコロ!猪里キュンをびっくりさせたいから、そのままずーっと目隠ししてて欲しいの。」
「でっ でも、こげん・・・!」
「駄目かなぁ・・・?」

きゅるぅんと捨て犬みたいな目で猪里を見あげ、縋りつく。もうすこしで泣き声に変わりそうな彼女の息遣いに、猪里は眉をへにゃんと下げた。豪球を素手で捕らえる胆力のある彼も、女の子の涙には耐えられなかった。

「・・・仕方なかね。」
「どこ連れてくんかしれんけど 明美ちゃんが言うなら ・・・ええよ。」

ぱっと目をみひらき、瞳をキラキラさせる。

「やったぁー!猪里キュン大好きっ!!!」

豪腕をガバッと猪里の首に巻きつけキッスを贈ろうとする明美を、虎鉄の眼光が押しとどめる。
(続けRo。指示通りだ。)
(は、はひ・・・)

「じゃゴメンなさいね猪里キュン、明美、これからその約束の地へエスコートしまっす!!」
「お、おう!」

明美ちゃん、ほんと強かおなごやね・・・とつぶやきながら、猪里の身柄はすっかり明美の手にゆだねられてしまった。
楽しい時間(?)はあっという間に過ぎる。「ありがとうございました!」という店員の声を背に、ふたりとひとりはそれぞれの思いを抱きながら、夢の城を後にした。



道中虎鉄は、何度も路に立ちどまった。みえない壁が急にあらわれたように、俯いて、じっと佇立する。それはさっきから抱えていた釈然としない なのにはっきりとした不快と焦燥感にせきたてられる、胸のうちの黒いもやもやがそうさせていた。それはちょうど奥歯の疼きと共振するように、ずきずきと肋骨の下でのたうっていた。
欺いている いちばん大切なものを。
心臓がなにかに追い立てられるように骨を打ち、どくどく動悸がして、からだがいやに熱い。
おれは猪里を騙している
その意識が いつも陽気な虎鉄の胸をつらい不安で罪悪感でいっぱいにした。
眼前の猪里と明美は楽しそうだ。
虎鉄のわけのわからない要求に付き合い、窮屈さを感じながらも、後ろめたさなど微塵もなく。ふたりはたのしそうに笑っている。目の見えない猪里の足元を気遣いながら、手をつないで 本物の恋人どうしのように。
後ろで自分は 暗澹たる思いを抱え――なんなんだろう これは? いま誰かに聞かれても説明できなかった。計画は上々、猪里はなにも疑ってないし――少なくとも、一連の異変の後ろに虎鉄がいることをほんの少しも悟ってはいない。
このまま無事に医者へも行けそうだ。
騙して、惑わして さらうように連れて行った場所で虎鉄のために尽くしてもらう。
それさえできればいいのだ。それが虎鉄の目的だった。・・・そうじゃないか?
虎鉄はかなしく自嘲した。
はっ と胸の底から息が洩れ、汗ばむ暑気にあてもなく散っていく。
何を考えているんだ、オレは。
気を紛らわせようと頭に鳴らした音楽が、おどろくほどの味気なさで空転する。
いつも好きなHIPHOPも、耳に浮かんでは虚しい風音になって通り過ぎる。
からごと。あだごと。
痛快なウィットに充ちた歌詞が今の自分には砂を噛むように感じる。
ぜんぶからっぽな虚勢のことば――そのとおりだ。からっぽの音楽だから、からっぽの男がよろこんで聴いていた。目の奥が、つうんと冷たかった。

猪里。

そのことばが神聖なひびきをもって口にのぼる。

ああ、猪里

虎鉄はくちびるをすうと尖らせた。
言うべきだったことばを忘れていた。
一年前のあのときから、ずっと。

ごめんNa。

虎鉄は ほかっと空をみあげた。
茫然と、けもののようなひとみで むかし見た透明のいろを目にうかべる。

『・・・嘘やなか。』

毅然として 堂々と陳べた己の本心を 
言ってうつむいたさびしいせなかを、虎鉄は目を逸らして背を向けた。

「なあ教えりー、明美ちゃん。ちこーっとだけでいいけんね」
「ダーメ☆サプライズが無くなっちゃうでしょー?」

軽やかな足取りでアスファルトを鳴らすふたりの影を、苦しく切り裂くように手を悶える。
同時にずぎぃっと臼歯が疼きをあげた。涙が視界を白くして、楽しそうなふたりを見ずにすんだ。

・・・猿野。

乾いた唇がうごいただけで、音は出ない。もういちど、かわいた舌でくちびるを濡らし、小声でささやいた。

(・・・猿野。)

ぴくっと耳をうごめかし、猿野は振り返った。黒い瞳が虎鉄を見る。何すか、と口の動きで云った。
虎鉄は何も言わず、顎で猪里の手を指し示す。
以心伝心、すぐに合点がいった猿野は唇をむすび、そっと猪里に向きなおった。

「ねえ猪里キュン、これからちょっとの間だけ、明美黙るね?」
「えっ?」

どうして、という顔で猪里は布で覆われた両目をそっちへ向ける。

「猪里キュン聞き上手だからアタイうっかり喋っちゃいそうだし、辿り着くまでこっそり、秘密にしたいのv」

えぇっ!?とこまったように眉を上げ、口をすぼめてちいさくぐずる。茫洋と暗い視界の中、真意をはかるように、うっすらとこわいような気持ちで猪里は首をもたげた。

「明美ちゃん黙ったら、静かになりよんしゃー ・・・寂しかよ」
「ゴメンね!でもどーしても明美、秘密にしたいの!一言も喋っちゃ駄目だから ・・・ね?」

んー・・・と喉で唸って 仕方ない、と覚悟をきめたようにこくんと首を振る。

「わかった、俺も男たい。・・・でも、手 離さんでくれね」
「ガッテン承知!じゃあ今からッ ・・・はじめっ!!」

叫んだ瞬間猿野はすっと真顔に戻り、虎鉄へ目配せする。虎鉄も頷き、猿野の握っている猪里の右手へ、指を近づけた。瞬間、くしゃん!と猿野がわざとらしいくしゃみをし、コンマ5秒だけ手を離す。虎鉄はさっと猪里の腕を――人差し指と 親指のさきだけで、遠慮がちに猪里の手首に触れた。
不安になった猪里はどきっと手をのばし、消えた手のひらを宙にさがした。虎鉄の細く長い指が猪里をそっと捕らえ やっと安心したように 腕をおろした。
途端に静かになった街道に、みしらぬ他人の足並みがさかさかと耳のそばを過ぎてゆく。虎鉄はちょっとくちびるをなめ ふかい息をした。その気配を感じたように猪里はすん、と鼻を鳴らす。連れが沈黙し、おまけに目隠しまでされて恐いのか、猪里はすこし小股ぎみに歩みをゆるめた。
少年は指先からつたわる猪里の体温に、じぶんが繋ぎとめられているような気がした。茫漠とひろい世界のなかで、宙にほうりだされたじぶんが、この ほっとあたたかい体温だけで繋ぎとめられている。
おさないころの記憶が、すこしだけ戻った。虎鉄は泣いて、父に頭を抱かれている。しっかりと、いつもより高い体温が かたく強張った肌の感触が、のぞむものとは違うのにあたたかかった。
夜明けの黒猫のように、とじられたまぶたは細く 流線型の弧を描いた。
やわらかい。あつい。そのぬくもりがひたりとあわさったふたりの肌のあわいで いきもののように燃えつづける。真空の世界の中で 静寂と、果てない孤独のなかで。
遠ざかった猿野の気配が後に消え、虎鉄は彼がつよい目で見守るようにじっとふたりを見ていたことに気づかなかった。
風がひゅうと頬を撫で、夕菅の花のかおりがふたりをさすった。
虎鉄の薄いくちびるは一文字にひきむすばれ その顔にはひとを寄せつけない、悲壮な強さがうかんでいた。
煙草屋の角を曲がり、魚屋を過ぎて、石畳の敷地へ足を踏み入れる。
あの階段を、昇れば。
そういえば 急ごしらえの計画で、連れ込んだ後のことも考えていなかった。
今はこうやって指先だけで繋がってても、あの扉を押せば消毒液のにおいがつうんと鼻をつく。五感のするどい猪里が気づかないはずがない。それでも彼女を気遣って、なにも言わない――かもしれない。
こっそりと受付の女性に名を伝え、予約した場へ踏み入れる。変に思われないはずがない こんな大の男が、二人連れで。関わりあいになるまいと医者はちょっと眉を顰めて自分を横たわらせる。猪里は戸惑ったまま、そばに座ってオレに手を任せつづける。――それから あの、音だ。虎鉄が臓腑の底からこわがった、からだじゅうの骨がかちかちいって震え上がる、全身が麻痺して駆動のきかなくなるようなあの金属音。ぎゅうと猪里の手をつかんでも、飛びあがって制止も構わず目隠しを外すだろう。そして知る、この工事現場のような凄惨なスプラッタ音が、何であるかを。そして虎鉄のほうを見、もういちど驚き、手を携えた相手が大好きな彼女でないことに気づくだろう。そうして 軽蔑ののぼった眼で自分を見る。
考えるほど虎鉄は大声で叫びたくなって、ゆびさきに持ったあたたかい手を振りはなしたくなった。
その時ちょうど 暗闇に不安が増幅しぎゅっと腕に縋りついてきそうになったからだを、虎鉄は肩を押さえて離した。
血を吐くような衝動が、胸を襲った。ほんとうはこんなことをしたくはないのだ。
猪里はちいさな息をして、のみこんだようにうなずいた。
かつん、かつんと軽い鉄音が足の下で鳴り、二人の身体はゆっくりとその頂へ近づいてゆく。
もう少しだ。もう少しで 自分達の築いた関係は壊れてしまう。猪里の胸にそなえた自分への信頼が、脆くはかなく崩れ去っていく。
『カワダ歯科』と白地に青で描かれた看板が虎鉄の目を吸いよせた。ガラス扉の向こうから、青白い蛍光灯が洩れている。
虎鉄は大きく息を吸った。
今はあの音より、猪里の失望がおそろしかった。左の指先で、懺悔するように手首を優しく抓む。
猪里は虎鉄のあとを遅れてゆっくりと、慎重過ぎるぐらいの足取りで上っていた。
茫然と、白いひかりを顔に受け少年は つり目を悲壮に細めながら猪里の手を引き、最後の一段を蹴って反対の手をドアノブにかけようとした。瞬間、

「わっ・・・!」

ざりっと石の擦れる音がして、高い声が響く。虎鉄は咄嗟に足をとめ、本能的な素早さで猪里の存在を目にとらえた。振り返る瞬間映ったのは、足を滑らせぐらっと後ろへ傾いだ猪里の姿だった。
踵が石を擦り、両目を覆われた猪里は重力を失う感触にはっと怯えた息をして、ぎくりと硬直した。虎鉄の背に血が沸きめぐる。赤熱の恐怖が彼を撃ち、しなやかな腕は雷光のごとき速さで突きだされた。長い指が縋るようにのばされた猪里の手をつうっと撫でる。血を振り絞るような必死さで、細い空間へ無理やり捩じ込み伸びきった虎鉄の手のひらが、がしっと猪里の手を捕らえた。汗がとけ、熱がまざる。
ぎゅうっと ふたつの筋肉が互いを握った。深く、ふかく。
その瞬間、猪里の眉がぴくん、とひらき 呆けたように唇が ゆっくりとあいた。
間一髪で転落を逃れた猪里の胸が、かかとに地面を捕らえた瞬間、はげしい息につつまれた。
ぜえぜえと、崩れた体勢をなんとか持ちあげ頂上へのぼる。着いた途端、がくっと猪里の背が丸まった。
屈みこんで肩で息をする猪里の手は、しっかりとその手を握ったままだった。そばの少年も、鉄のようにがっちりと猪里の手を握って離さない。ねじ切れそうな手の強さに、途方に暮れたように猪里の眉が下がった。
しばらくのあいだ 猪里は、なにも言わなかった。はあはあ上がった息に頬がのぼせ、ゆっくりと身を起こす。

「明美ちゃん」

びくっと動いた左手に、猪里がふっと微笑む。

「ありがとうね」

虎鉄は、なにも言わなかった。

「目隠し 取っていいよな」

穏やかだがはっきりとした響き。
当たり前のように告げられた言葉に、虎鉄は凝然と立ち尽くす。咎めるように、ぎゅうと左手に力を込めた。

「・・・駄目なん?」

「そうか」


「なあ ひとつ聞いていいか」


宥めるような、やさしいひびきだった。
虎鉄はきゅっと唇をゆがめた。

「どうして虎鉄に、なったん?」

電撃が体を走った。天から降った稲妻が頭頂から踵まで貫き通して、せなかが焼け爛れた。
心臓がぎゅうっと掴まれ、一気に全身を沸きめぐった。虎鉄はなにか言おうとして、数度くちびるをとじて、ひらいた。だが、無駄な抵抗だった。喉の筋肉が引き攣って、感電したように、その場をうごけなかった。

「どうして なんも言ってくれないんやろね」

少年の狐目が、はっとみひらかれた。

「なんであいつになったのか」

「『明美ちゃん』は 教えてくれないんやね」

なんも、と小さく付け足して こっくりと首を伏せる。虎鉄は弾かれたように小さく叫んだ。

「なんDe、」

やっと耳に届いたじぶんの声は、何十年かぶりに再会した友の声のようだった。

「わかったんDa」

情けないほど上擦っているじぶんの声を、少年はふしぎな解放感と虚脱のなかで聞いた。
猪里はぎゅっと眉根をよせ、臍の前でにぎったこぶしをぶるぶる震わせた。すっと顔を上げ、闇に閉ざされた視界の先の、おそらくはおなじように慄えているだろう相手を見つめ。薄茶の眉をふわっとゆるめた。

「虎鉄」

やさしくゆるめられたくちもとが、かすかに水をうけた赤い目に にっこりとほほえんだ。
そして、右手ににぎった男のてのひらを、高校球児らしいふっくらした厚みのある手で、ゆっくりとさすった。いとおしげに いつくしむように こどもを、抱き寄せるようなしぐさで。虎鉄の、血まめだらけのがさついたてのひらを 握りこんで、やさしくはなした。

「注意しても聞かん。包帯も巻かんと気張って、余裕面でボックスに立つんごた」
「こん荒れた、傷だらけの よう血の止まらんよーなちかっぱ痛む訓練を毎朝毎晩、休まず続けるよーな野球バカん手は、」

そっと 目を包んだ布に手をかける。

「世界に、ひとりしかおらんよ。」

街道いっぱいに金色のひかりがそそぐ夏の夕暮れ しゅるっとごわついた衣擦れが、ななめにさした西日の下からうるんだオリーブ色の双眸をあらわした。熟れた実のように かすんでふかい茶緑のまるいひとみが虎鉄の朱橙の眼を、しっかりとじぶんに結わえつけた。

「猪里 オレ、」

掠れた声が、なんとか喉を這い出る。説明したいのに、話さなきゃいけないのに鼻の奥がじんとして、虎鉄は猪里の瞳に食い入るように見入ることしかできなかった。
アレ こんなんじゃ、ねえはずなんだけどな 
虎鉄はいま、全身が柔らかな水になって、くたっとながれおちてしまいそうなくらい ほっとしていた。泣きたいほどの安堵 じぶんじしんの情けなさ。向かいあった瞳の、あたたかい 怒ることもなくじっと辛抱づよく見上げてくるやさしいひかりに、わっと声をあげて泣きついてしまいたかった。こんなの いやいや、おかしいだRo オレとしたことGa、猪里、見てんのに。・・・これじゃ、
ママと出逢って泣きじゃくる、迷子のガキみてえだ

「怒らんから 言ってみぃ」

少年はにっこりと、ほどけるように笑って 虎鉄をまっすぐ見あげた。



透明なあおじろい匂いが待合室をみたしている。
オルゴールの奏でるカノンはごくちいさく、小人の鳴らすハンドベルのように、清浄な水のようにあたりを流れていた。クッションの薄いロビーチェアの上に、背格好のわずかにちがうふたつの影があった。
いっぽうは深く項垂れて、いっぽうはその肩に添うように 
ふたつの間から、かぼそい声が洩れてきた。

「最初は、平気だって思うんDa」

「今まで人生で一回も行けなかったわけじゃねーShi、こんだけデカくなったんだからYo」

でも、駄目なんだ。声が弱まる。

「看板見るだけでウッてなんだYo 一人で来たら、もう足が竦んで動けねーNo。」

右手で、顔を隠すように頬杖をつく。

「あの台の上に寝Te、銀色の器具がカチャカチャいうのを聞いてっと 背中がドッと汗かいTe」

虎鉄は唇を震わせた。

「無理なんだ」

動悸が激しくなって、いてもたってもいられず、恐怖で金縛りになる。あの青い診療台が、死刑椅子か何かに見えてくる。

「怖ぇんDa こわくてこわくて、しかたがねえんDa」

言っちまった。猪里にだけは知られたくなかったのに。
猪里の飾りのない、真実を見とおす目から自分はどう見えるだろう。普段ナンもこわいものなんかねえと哄笑し、先輩面して偉そうに豪気をふかしていた自分が。
猿野はなんであんなこと言ったんだ。世辞言うガラでもねぇのに。勘違いしてんのか
男がこんな、怯えるかよ。
ウジウジウジウジいつまでも、知られたらカッコわりぃとか、一人はごめんだ、とか。
こんな悩みにこころを狂わせてたとあれば 自分のイメージは、こなごなに瓦解してしまう。それでも起きてしまったのだ。格好つけの虎鉄の、薄っぺらな虚勢と、空威張りの仮面を引き剥がされるときが――よりにもよって、こいつの前で。

「そいでおまえは、」

猪里の視線が刺さる。

「こわくて誰かそばにいてほしゅうて、そいでこんな計画立てたんか」

ぎゅうっと目をつぶる。そうだ、と云うようにがっくりとうなだれる。言葉にされると 自分で言うより残酷なひびきだった。
もうだめだ いちばんおそれた、ひえびえと冷たい侮蔑の目が落ちてくるのを、虎鉄は絶望の眼を伏せて待った。灰色のかなしみに、じっと頭を垂れ。


「つらかったな」


耳を疑った。しみとおった声に 虎鉄が予想もしていなかったことばが
喉がびくっとふるえ、くちびるが痙攣する。目の前が真っ白になって、胸がじゅうっと熱いものでみたされた。

「よう辛抱したね 虎鉄」

ふかふかの手がバンダナの上から虎鉄の髪をそっと撫で付け、やさしくつつみこむ。ぽん、ぽん、と四本の指が頭をさする。なずむように柔らかな手が、しみるほどあたたかかった。
虎鉄のつり目がすうとほそめられ、呆然とそのてのひらに睦んだ。
なんで と言いかけて、やめる。

「馬鹿だと 思わNeーの」

猪里は首を振った。

「嘘ついて 連れ出してSa」

「オレのこと、軽蔑しねえの」

猪里はもう一度、辛抱づよく首を振った。

「せんよ。」

あかい瞳に、ひかりが灯る。

「恐くて恐くてどうしょーもなかったんに」

思惟するように、覗き込むように 猪里は虎鉄をみつめた。

「野球までオシャカには、できんかったんやろ?」

おまえんこったい、と猪里はおかしそうにわらった。

「考えて、苦しんで、必死で恐いの我慢して、ひねり出した計画なんやろ」

問いではなく、じっと寄り添うように見つめた瞳から答えを導き出した。虎鉄の紅い瞳は、まじめで素直なひかりを宿していた。

「バカにげな、するかい」

言うと猪里はすこし沈黙した。呆けたように口を開いていた虎鉄は今はじめて猪里のことばを理解したかのように、おおきくほほえんだ。にぱぁっと びっくりするほど幼い顔で、猪里の肩に頬をすりつける。へにゃっと眉を丸めて。猪里は少したじろいでその顔を見つめた。透明なひとみが少年をじっと見守る。と、肩にくっつけていた虎鉄の頭がずるずるとさがりおち、ぽふん とふとももに埋まった。

「かーちゃん」

「誰がきさんのかーちゃんかッ!!!」

カッと眉を吊り上げた少年に受付の女性がビクッと振り返った。
虎鉄はこともなげに言った。

「とーちゃん」
「・・・こげんクネクネうねりよる子 うんだおぼえなかよ」

柔らかな指が虎鉄の耳を撫でる。虎鉄は懐っこい猫のように猪里のふとももに反対の耳をすりすり擦りつけた。猪里はほんのすこし口元をゆるめて、やさしくかがみこんだ。
みじかい時間が、ながくゆっくり過ぎていく。水のなかに 寝るようだった。

「猪里は どう思ったかNa」

虎鉄は独りごとのように言った。猪里はすこし顔をあげる。

「カッコつけて大口叩いTe」

「『フリ』、続けてRu男のこと」

猪里はひくんと小鼻をうごかした。じっと虎鉄を見おろし、しずかに想う。・・・あんときの、こつやろか。
猪里は膝の上の無機質な、だが強いて怯えを押し込めた表情を見つめた。
しばらくして、彼は言った。

「恥ずかしいとことか、隠したいとこなん 誰にだってある」

虎鉄は わかっとらんね
俺のこと、挫折もなんもきかない、地蔵様かなんかみたいに思っとう

「失敗げなちかっぱするし、言い過ぎて傷つけて、やめときゃよかったって、後悔することもある。」

そいで こんなふうに頼って、わらってくれる

「俺だって カッコつけとるとこ、あるよ」

猪里は、いつにない必死な目で少年を見た。かすかに唇を噛む。

(野球も、そうやし)

勉強できんくて親に心配ばかけて 「帰るか」なん言われてブチ切れて言い争って悔しくて 聞こえんようにトイレで泣いて
そげんこと虎鉄に言う必要、なかね

「かっこつけて『フリ』演じて、あー俺何やってんやろ って。」

虎鉄の手が猪里の膝をそろそろとさぐって、みつけた手をぎゅっと握った。猪里は少し赤くなった。

「・・・情けのうなって、こん自分が どうしょーもなか腑抜けに思えるときが ・・・あるんよ」

言いにくい、きまりわるい胸のうちを強いて、押し出すように猪里は喋った。虎鉄の真剣な目が自分を見るのを感じ、喉にぐっと力をこめる。知らず少年は、たかだかと顔を上げた。

「ばってん、そうやって元気に明るく演じとるうちに、」

ぎゅうっとこぶしを握る。

「演じた強さが いつの間にか身についとることがある」

嘘じゃない。そう訴えるように彼はまっすぐ虎鉄を見た。虎鉄は、ごくりと唾を飲んだ。

「ああなりたいもっとこうなりたい、皆によろこばれる格好よか自分になりたい ・・・そん気持ちが、『ほんとうの自分』になる瞬間が、」
「確かにあるんよ。」

すう、とどちらともなく息を吸った。猪里はすこし逡巡して、もじもじと唇をうごかした。

「だから、おまえのその、 ・・・なんちゅーか」

へにゃっ と眉を下げる。

「ああいうのも、ね。」

猪里はふっとわらい、それ以上なにも言わずに虎鉄を見つめた。
虎鉄の目はある思いに、あかあかと燃えていた。
猪里は弱さを見せてくれた。へこたれたオレのために。ずっと見せねーようなたいせつな奥の部分を、ちらっとみせてくれた。オレも、返さねえと。
こんなままじゃだめだ。強くなりたい 猪里のために。
猿野と話していた彼の、虎鉄を想ったかすかなうれいの瞳を思いだす。
オレはもう、あのさみしい顔を見たくない。
あんな顔をさせない。――オレがそうするんだ。
からっぽの胸に漫々と勇気が充填されていくのを虎鉄は感じた。
ひとつ、ふたつ ・・・まだきっとある。
猪里にも ほかのみんなにも。家族にも 虎鉄を離れていった、傷つけた女の子たちにも。
じぶんが強くなることで、あげられるものを彼はじっと考えていた。けだかくきびしい、ひどくまじめな顔で。
虎鉄は燃えさかった頬をしずかに上げ、正面から猪里を見つめた。面長な顔に、爽々と笑顔がのぼる。
にぃっ と、さっきよりも朗らかな、誇り高いまなざしで立ち上がり、猪里の手をグッと自分のほうへ引き上げて立たせた。

「えっ・・・?」

戸惑った様子で虎鉄を見あげる。虎鉄は両手で猪里の頬を挟み、切れ長の目を近づけた。

「ありがとう」

薄いくちびるがやさしくうごいた。猪里のまぶたがぴくんとふるえる。
唇にかかる息に 猪里は目をほそめ、

「・・・おお。」

とつぶやいた。
吐きだした息に心臓がとくとくとく・・・と奔りだす。ふたりはしばらくじっとお互いを見つめ リズムの違う息を感じながら、胸の高鳴りに耐えていた。バンダナの粗い生地がずりっと猪里の前髪を撫でる。猪里は、こつん、とおでこをぶつけた。

「・・・さっ!」

迫った顔を押し離し、ぽん、と腕をたたく。

「行こか。」
「He?」

どこへ?とでも訊きだしそうな虎鉄に、呆れた顔で猪里は言った。

「治療、してもらうんやろ?」

しゃーないなあ という顔でふんわりほほえむ。
さしだされた手は、まっすぐ虎鉄の左手を待っていた。
胸がずきっと熱くなる。喉の奥がへんにふるえた。つうんと痛む鼻の奥をごまかすように屈み込み 振り返ると同時に虎鉄はくるっと鋭く脚を薙ぎ、軽やかにわらってスピンターンをキメた。

「じゃ、行こうZeッ!」

辺りも構わぬ派手な身振りに、周囲の患者や衛生士がくすくす笑った。虎鉄は照れくさそうにはにかんで、ぱっと両手を広げて猪里を待つ。猪里は顔を赤くして、こっちが恥ずかしか・・・と口を尖らせた。

「ホラ、一緒一緒。」

手をひらひら動かして招いても、ふんと知らん顔する猪里に虎鉄はじれったそうに口を曲げ、さっと手を伸ばし逃げる腰を引き寄せる。

「・・・わっ!」

腕の中へ倒れこんだ猪里は、虎鉄の双肩にしろく盛り上がった筋肉にぐいっと羽交い絞めにされ、心臓が口から飛びでそうになった。虎鉄の手が肌恋しげに猪里をさぐり、両の肘でぎゅうと抱きしめる。猪里はかあっと全身が沸騰した。
周り、見とるやろがっ!
ふっさりした眉もむすんだくちびるもへにゃっと曲がり、気恥ずかしさにばたばた暴れる。が、ひひっと歯で笑う虎鉄の顔が悪戯っぽく、ほんとうに嬉しそうで 抗おうとした猪里はペースを崩されてしまう。真っ赤な顔のままずるずると輸送され、受付の前まで連行されてしまった。
先日虎鉄を蔑んだ女性は、意味深な眼差しで彼に笑みかけた。虎鉄はハハ・・・と汗を垂らし、小さくなって財布を取り出した。

「予約した虎鉄大河でSu☆」

今度は忘れず持参した診療カードをぴっと気障に指を立て、しゃらんと元気に星が舞う。
耳元に猪里の盛大なためいきを聞き、虎鉄はほこらしげにきらきら頬を輝かせた。

「・・・保護者つきDe!」







虎鉄の薄い手を握っていたとき、猪里の胸に『その頃』の断片があぶくのように浮かんできた。こぽっと音を立て その時は夢にも知らなかったはずの温度が、肌の質感が――何故記憶を呼び覚ましたのか分からない。でも猪里は、思い出した。

西へ沈み掛かった夕闇に、茜色にそまる一年棟。課題のノートを鞄に入れ忘れた猪里は用具の手当てを終えた後、急いで自分の教室に戻っていた。今日、言われたことを知らず胸にとなえながら猪里は駆けていた。この日自分の身に起こったことは、間違いなく猪里のなにかを大きく揺り動かした。
何が起こったのか分からなかった。判然とは。ただ、自分のうちではっきりと殻を脱ぎはじめたものを感じる。
変わらなければならない 茫洋とした意識のなかに その誓いだけが煌々と灯台のように胸の中心を照らしていた。
念入りにするあまり球磨きに膨大な時間がかかり、自分の割り当てを終える頃には最終下校時刻が迫っていた。机から慌ただしく帳面を取り出し、あちこちにぶつけながら鞄に突っ込むと、猪里はほっとして立ち上がった。そのまま入り口から出ていこうと乗り出した矢先、一人の人影が猪里のからだを止めた。猪里は動揺した。
なんでおまえが。別のクラスのはずなのに。いつもの癖でさっと肩を尖らせ、僅かに身構えるとその影は猪里へ向いた。くるっ と肩から上だけを滑らかに、ねじをまわしたように。彫りの深い顔は横ざしの斜光を受け、黒影に切り取られていた。

「今日の話」

唐突さは無かった。
彼の口から『それ』を語られたことが、強くこころに刺さりつく。

「聞いたRo」

抑揚のない少年の声に、猪里は抵抗を感じた。
面長な輪郭は、無表情に見えた。薄い唇がなにか言おうとして閉じられる。彼は逡巡しているようだった。

「・・・言われたからじゃねえZo」

「いや嘘 正直言われたからなんだけどYo」

少年は己の躊躇にむくれて、鼻を歪めた。

「考えたんDa」

「このままろくに連携もできねえDe」

「負けさすわけにゃいかねえだRo、ブザマに。」

猪里は頷いた。意地をはろうという気はのぼらなかった。今は。少年もしずかな仕草でうなずいた。

「十二支、連れてかねぇとNa 甲子園に。」

猪里はぞくっとふるえた。最後のことばを、少年はおどろくほど強い語気で言い放った。
猪里はじっと立った。
十二支を、甲子園に。
背筋を伸ばし、最大の礼をそのことばに送るように。

「負け試合で醜態晒しTe」

「自分にも納得できねえDe」

「くだらねえ意地で。」

金槌のように、低まった声がどんと胸を撃つ。

「テメーにダセーとこ見せんのだけHa、御免だ。」

少年は睨むような眼光で猪里を射据えた。

「・・・おお!」

猪里はちょっとだけためらい 純朴な目で、おおきくうなずいた。

「俺も矛ばおさめる。・・・俺だって同じやけん」

少年はすこし目をみひらいて、皮肉っぽく首をまげた。次に出てきた言葉は、猪里が今まで聞いたことがなかった、驚くほど率直で熱烈なひびきをもっていた。

「あの人たちを、連れて行くんDa。」

斜めに射した赤光が少年のからだを切り取り、巨きな影を投げ掛けた。紅い瞳を焔と光らせ、教室のいちばん端まで黒い威容を尾に引いて。
どこか偉大なひかりさえを身に纏い、虎鉄はまっすぐに猪里を見つめていた。

じりじりと焦がす西日の光線が体を焼いた。制服の上から、埋み火のような熱が猪里のからだを燃やす。


おまえは、わからんやつやね


燃える夕日のなかに、水のようなはかない冷気が一点、しみのように猪里の胸を打った。
どこかせつない、それでもはじめてのよろこびに洗われた表情が、彼の顔にのぼった。

わからない

まるでみえない星をながめるように 猪里は顔をあげ、少年の目を見つめた。

おまえも、そうなんやろか



・・・こてつ。






ぬくもった夕風がここちよく肌を撫でる。しめっぽい大気は街路樹のにおいをふくんで爽やかだった。
虎鉄はうきうきと鼻歌をうたって、軽快な音を足下に刻む。靴の下の地面は宵闇に消える夕陽から最後の温度を手放そうとしていた。横目にちらっと左を探し、振り向き加減に後ろを見ると猪里と目が合った。にっと虎鉄が笑うと、猪里もゆるく微笑した。テンポの速い虎鉄の歩調は夢中になるとどんどんスピードアップして、ほうっておくと周囲のものに気を取られながら――正確には食べ物の匂いにくんくん鼻をたてながら歩く猪里の足からずんずん遠ざかってしまう。気づいた虎鉄はわざとゆっくり足をゆるめて、猪里が追いついてくるまでそれまで気にもとめなかった街の風景に、ていねいに目を送りながら歩いてゆく。
その短い時間のなかで虎鉄は考えた。

猪里も、オレと同じ?

アイツも、恐がることがあるんだろうか。
さっきはああ言ってたけど、実感がわかない。猪里が『なにか』を怖がって――そりゃ事故とか注射とか、誰でも怖がるものはみんな怖がるだろうけどYo。
もっと、普通の人は全然恐がらないようなもの――そう!オレがぜんっぜん平気なものが、猪里にはゼッテー駄目もー気絶する考えただけで墓に入りたくなるようなもんが、この世にあるのかNe。
虎鉄は想像して、くくっと笑う。
あったらいいNa、なんて思うじぶんは勝手なんだろうか。
でもYo、本当なんDa。
猪里も怖くって、悔しくって泣いちまうようなことGa。
あるんだって思うと、ふしぎと胸があったかくなる。
・・・酷えなこの言い方。いや、なんつーかYo。そういうひでぇ意味じゃなくて、

そういうときオレがいたら、って。

そばにいてなにかしてやりたい。ほんとうに、全身全霊の力を懸けて護ってやる。
猪里が助けを求めるときに、一番に見っけて駆けつけんのはオレであってほしい。・・・オレGaいい。
誰よりも誰よりも早く、猪里の悲鳴の最初のひとこえが発される瞬間、エスパーで察知して瞬間移動で駆けつけてとにかく抱きしめてやRu。

でもきっと、猪里がぜったい見せたことがないような表情を見せたとき、オレは心底ビビるんだろう。ただでさえ怒ったあいつは恐ぇかRa、たまげてションベンチビるかもしれない。
お前そんなこと言うのかよ!とか信じらんNeーZe!ってことに猪里がなったとき。

逃げたくない。
そばにいてやりたい。
優しいあいつが 荒れ狂ってこころも崩壊して、ヒくほど当り散らしてガーッてなっちまったときに。
どうしたんDa?って やさしく訊いてやりたい。ほかの誰もが逃げだすようなときでも。
オレの力なんてなんの役にも立たなくても。・・・いや、嘘。役に立ちてえけDo。めちゃくちゃあいつのためになりてえけDo。
いちばんつらいとき、そばに。

それがオレの恩返しだ。

少年はさあっと空を見上げ、星の瞬きはじめた夕闇に凛と目を細めた。

今日この日、そばにいてくれた 馬鹿にせずに医者の前で恥ずかしいのも構わずにそばに座ってあったかい手で、ぎゅって握って。

約束Da。

勝手に約束するZe、猪里。
笑えYo。ウケんだRo。勝手に約束してんだZoオレおまえの知らないとこで。あー笑えRu なんだこれ、何でこんなにおかしいんDa?

「今日のオレ しあわせDa」

少年は怪訝そうに、ぴくっと眉を上げる。

「・・・どしたん、虎鉄?」
「『どしたん』はないでSho。オレが幸せじゃおかしいかYo」
「そーやなくって。」

虎鉄の歩調に追いついた猪里は、そのままゆったりと彼のそばにおさまった。

「みょーに締まりのない、へろへろしただらしなか顔しとるなぁと思って。」
「へろへろはNeーだRo猪里ちゃん!こんな引き締まったクールガイ捕まえてYo☆」

余裕をもって猪里を見つめ、おだやかにわらった。

「しあわせなんだYo オレ」

尖ったものを、こくんと呑み下す。

「・・・ずっと、抱えてたからNa」

すこしだけ蔭った虎鉄の声に猪里は、いつもの声でほほえみかける。

「そうやね、虎鉄。ほっとしたんやろうなぁ」

やさしい低音が虎鉄の耳朶に心地いい。

オレが楽になって 猪里が笑ってくれた。

きゅっと目尻をゆるめ、うれしそうに肩へ腕を回すと「暑いっちゃ」と外される。

「・・・虎鉄。」

重い響きに、ちょっとビビった様子で神妙に口を閉じる。

「今度あーゆうこつがあったら、ちゃんと『早めに』俺に言え。」
「A、おう。わかりましTa」

猪里はぷりぷり怒って、小さな子に諭すようにずいっと顔を近づけた。虎鉄は素直にぺこりと頭を下げる。

「虫歯ぁ放っといたら死ぬこつもあるんやぞ。手遅れんなったら、どぎゃんすっとね!」
「はい、反省してまSu」
「明美ちゃんまで巻き込んで、申し訳なか!」
「Ahー・・・その、悪かったNa・・・」

その言葉を聞いたとたん虎鉄は、急に塞ぎこんだ。猪里は、ん?と眉を上げる。
彼はさっと目元を暗くして、心底後悔するように項垂れた。

「・・・どーしたね、そぎゃんして」
「いや、Sa・・・」

少年は口少なに、猪里をそっと窺い見る。

「ヒデー事したよNa、オレ・・・」
「そっ そげん深刻な顔するとこかいね!・・・俺はもう気にしとらんから、顔あげー!」
「気にしてないっTe・・・強がらなくていいZe・・・」
「強がるぅ!?」

どうもテンションが噛み合わない。
すこし叱り過ぎてしまった?なにが虎鉄を傷つけたんだろう。俺は、どうしたらいいんだろう。
不可解な少年の様子に猪里は当惑して眉を下げる。

「な、なあ虎鉄・・・」
「好きなコとのデートが、」

ぴた、とその場に静止する。

「自分を連れ出すための『トリック』でしたっTe!!」

虎鉄の喉を振り絞った叫びが、殷々とこだまする。
猪里はぽかんと立ち竦んだ。

「ショック過ぎんだRo オレなら泣くわ・・・トラウマもんDa。本ッ当にごめんな、猪里・・・」

ぱくぱく口をあけ、呆然と彼を見つめる。

「よく考えりゃ分かることだったのNi・・・最低Da、オレ。男の風上にも置けやしNeー・・・」

今にも自害しそうな声に、猪里は面食らってひしと虎鉄の腕に縋りついた。

「ま、待て虎鉄!おまえなんか勘違いしとーよっ!」
「・・・勘違い?」
「俺は明美ちゃんのこと、大好きやけどっ 恋愛対象として見たこつはなか!!」
「Heっ?」

憔悴しきっていた虎鉄の目が点になる。何言ってんDaコイツ?
あんな真っ赤に頬染めてデレーッと身を任せきって今夜にも直行ベッドインしそうな勢いだったくせに言うことが白々しいんだYoッ!!!
ビキビキッと音を立てて虎鉄の血管が膨れ上がる。
気がふれたかと勘繰るほどに衝撃的なその言葉、あまりのショックに虎鉄は勢い込んで叫んだ。

「どーいうことだYo猪里ッ!おまえあんだけメロッメロにあのクリーチャーNi・・・!」

「アイドルやっ!!」

時が止まった。

今なんか聞こえたNa。なんだっけ?今猪里は・・・いやいや気のせいだよNa、コイツが言ったのはそう、たぶん

「明美ちゃんは俺のアイドルや。・・・そう、心の星。」

神様 オレの耳とこいつの頭と、どっちがイカレたんですKa。
願わくばオレの聴神経が爛れた結果であることWo・・・

「あん可愛さで癒しをくれる、俺の南十字星やね」
「あ駄目Daこれ!!!」
「考えてもみぃ!あげん清純で色っぽい、気立てがよくて優しゅーて男をちゃんと立てるよかおなご、世界中どこを見渡してもおらんぞ!?埼玉の大地が生んだ、三国一の淑女たい!」

大真面目な顔でこちらの目を覗きこむ。虎鉄は数十秒、呼吸を忘れていた。
うっとり首をかしげ、とろんと蕩けた瞳で明美の美貌に思いを馳せる。

「ほんに目がおっきくて・・・あの魅惑的なクチビルを想ったら夜も眠れんよ 清楚な腋から慎ましくこぼれた腋毛がセクシーで鼻血もんやね。ボン!キュッ!ボン!で腰のラインも悩ましゅうて・・・あぁっ こげんいやらしかこつ考えちゃいけんっ!明美ちゃん、ゴメンな・・・!」

―猪里は―
2度とノーマルへは戻れなかった・・・。
クィアとノンケの中間の生命体となり、永遠に宇宙空間をさまよう彼を分かりたいと思っても分からないので虎鉄は考えるのをやめた。
「そっKa。」
虎鉄は涅槃のまなざしで、安らかな微笑を漂わせる。
「オマエガイイナライイヤ・・・」
フリーソフトみたいな声で悟りを開く虎鉄に、うんうんと猪里はしたり顔でうなずく。

「美しいもんは、遠くから眺めてるだけでええんよ。明美ちゃんは俺なんかの手が届く存在やない」

猪里はうっとりと虚空を見あげた。

「彼女は、高原に咲く白百合たい。」
「男子便に咲くブナシメジだRo。」

虎鉄の声が聞こえていないのか、猪里はぽおっと目元をとろけさせている。
虎鉄は嵐のようなため息をついて、まじまじとその横顔を見つめる。

・・・まあ、こいつはこういうヤツなんDa。

思えば不思議とからだの力が抜ける。おかしくって異次元De、信じらんねぇぐらい楽しいのが猪里Da。満ちたりた微笑で虎鉄は誰にともなくうなずく。ようよう呆れがおさまると、異変に気づいた。

(・・・アレ?)

胸がすうっと軽い。押さえつけていた重しが無くなったようだった。

『もう、猪里キュンのいじわるぅv』

明美の狂態が蘇り、思わず彼はぷっと噴きだした。
猪里とアイツは、仲良しで。
スイーツ店でおかしそうに笑ってじゃれあって、あーんvしてたのも。あんな親しげに話しこんでからだにさわって、猪里が真っ赤になって奴のイチモツを見てたのだって。手ぇ繋いでたのも、みんな、

『恋愛対象じゃない。』

胸の血がさあっと温かくなって、虎鉄の頬に赤みがさした。
ふてぶてしく、ニッと目尻を下げる。

だってコイツ、あのバケモンのこと、『アイドル』っTe!

そんなことを思う猪里がかわいくって、不思議で 謎めいてすらみえた。
はははっ!と笑うと猪里が不思議そうにこちらを見る。
バカにしてるわけじゃない。明美を可愛いと言う猪里が、じぶんがいいと思うものにまっすぐな猪里が、うつくしいものを思って目をキラキラさせる猪里が、猪里らしければそれでいい。虎鉄には、それだけでじゅうぶんだった。
縛られていたものが、ぱっと虎鉄のからだを解放し、憑き物の落ちたように軽くなる。
ほっと安心すると、緊張がゆるんだ反動でふたたび腹に痙攣がこみ上げてきた。くくくっ・・・としきりに笑って横隔膜が跳ね返り、げほげほ咳き込んだ虎鉄はしあわせそうに猪里をみる。

「そうだよNa、おまえがアイツと付き合うわけNeーもんNa。」
「いつも思っとーけどきさん、彼女に馴れ馴れしかよ!『アイツ』って何ね『アイツ』って!」

ハイハイ、と呟いて、心底たのしそうに目をつぶる。

(おまえにゃいつも、度肝を抜かれるZe。)

死ぬほどビビらせてくれYo、猪里。
オレの知らないおまえを、もっとガンガン見せてくれ。

「・・・それよかカラオケ行こうZeカラオケ!最近ずーっとアレだったから今日はパーッと騒ぎてえNa!」
「耳がガンガンするけんねぇ どーしょっかなぁ。」
「いや付き合えYo今日ぐらいっ!!たまにゃ二人でSa!・・・バラードか落ち着いたのしか歌わNeーから!」

ガクッと滑り落ち、必死で機嫌を取ろうとあたふたする虎鉄に猪里はふふっと笑った。

「冗談やって。付き合うてやるよ」

にこりと笑って、平手でばん!と虎鉄の肩を叩く。

「うおっふ・・・ 男前、猪里ちゃん!」
「おまえん奢りな。」
「Ha!?何で!?」
「バイト代。半日間の、」

猪里はにやあっと口をまげ、うわめづかいで虎鉄に目くばせする。

「『ベビーシッター代』、な。」

小首をかしげてほっぺをゆるめ、からかうように彼を見た。まるい瞳は虎鉄をまねて、ぱちんとウインクする。虎鉄にさんざ冷やかされて練習し、ぎこちなさのなくなっていたそのまぶたのうごき。
きょとんと固まった虎鉄の白い頬が、ぽーっとゆっくり桜色に染まっていく。
怒るんだか怒らないんだか、虎鉄を覗きこんできた猪里の顔がなんだかいたずらで、幼くって。
――ほんのすこしだけ、

 蠱惑的、だった。

虎鉄をまどわせたその視線はすぐに逸れ、あまい笑顔の余韻にぼうっと見惚れていると猪里はこともなげに鞄を探り、喉渇いたっちゃねー、とタッパーから梨などつまみだした。からかわれたことをいまさらに実感し、怒ってやることもできたがさっきのあの、いじわるくこども扱いするような視線が――さっきあの診療台で握っているときはすごく真剣だった目が、虎鉄が元気を取り戻すや、こんなふうにおちょくるみたいに くちびるを悪戯っぽくまげて虎鉄を見る。なんだか頭と胸がもやもや熱くなって、虎鉄は締まりなくあいた口元を隠して、赤くなった。

「猪里ってなんか ずりーよNa」
「へ?」

いや、と口にして、果肉に齧りつく口元から目を逸らす。
朱に染まった虎鉄の顔を、猪里はふしぎな表情で見つめた。しんみりと、物思うまなざしで。

「今日な、」

虎鉄がひょいと振り向く。

「話してくれてよかった。」

「・・・おまえんこと、知れて。」

猪里のほほえみから、寂しさは去っていた。

虎鉄はすこしどもって言った。

「んだYo、急に改まってSa。話ならいつもしてんだRoー?」
「こげんふうに話す時は、なかったと。」

猪里は、じっと虎鉄を見た。
虎鉄もじっと猪里を見返す。

「猪里」

虎鉄は肩を引き寄せ、ぐっと顔を近づける。
猪里はじっと、目を逸らさなかった。


『オメーにゃ関係NeーだRo?』


『放っとけYo オレのことなんKa』


あのときは、言えなかったことば。


「ごめんNa、猪里。」


猪里はちょっと目をみひらいた。


「ありがとう。」


待合室で告げたことばを、虎鉄はもう一度、ていねいに猪里のくちびるへそそいだ。
しみいるような熱い目で 猪里は、ふっとほほえんだ。

「・・・どーいたしまして。」

ふたりの息が、こわいほどちかくで触れあった。
くすくすとどちらからともなくわらって、何度となくしたようにおでこをごつん、とぶつけあう。
つつましいためいきが、そらへのぼった。

夜空をしゅっと星が流れる。
猪里の顔を両手で挟み、虎鉄はおおきく笑いかけた。どきっと心臓が跳ねる。胸を固めた猪里をよそに 彼はだしぬけに空を見上げ、ばっと両手をひらき叫んだ。

「どーDa親父ッ!虫歯やっつけたZoコノヤロー!!!」

声は朗々と天へ響いた。
家にとどいたろうか?とどくわけがない。あとで言ってやろう。
紅い瞳に、勝ち誇った光がやどった。
猪里はあっけに取られて肩を落とした。

「まーた喧嘩したんね、おまえは。」

親御さん大事にしときー、とかるく説教垂れると虎鉄はぶうと頬を膨らませた。

「喧嘩じゃNeーYo、あいつが勝手にキレてんだYo」

むくれかえった声の響きに猪里は思わず声高くわらった。やさしい低音がうわずって、しめった空気にりんとひびく。虎鉄はポケットのipodをさぐり大好きな曲を選んで、片方の耳にイヤホンを押し込んだ。もう片方の耳は猪里の声を聴くために。

「お、またあん曲か?」
「新曲だYo、いま練習してんDa」
「ほぉ やっぱ耳のギンギンするやつなん?」
「いや、コイツは結構マイルドな方かNa。」
「じゃあ貸してみー。」

はっと息を呑んだ。
驚きに硬直した虎鉄が薄茶の眼をのぞきこむと、猪里はもう片方のイヤホンをつまみ、自分の耳に押し込んだ。虎鉄は落雷に撃たれたように、そのなにげない仕草をみまもった。

「んー、やっぱ何言っとるかわからん。」

胸が震えているのを、押し隠す。

「そら そうでSho」

詰まった息を、ごまかすように吐き出した。
猪里は、真剣な表情でイヤホンを強く押しこみ じっと目をとじた。胸を締めつけられるような時間が流れる。ゆっくりと 単調な旋律の ささやくような

「でも」


「おだやかで きれいやね。」


紅いひとみが かすかに潤んだ。

「波の音がする」

陶然と、花の香りをかぐように とじたまぶたにひたとちからをこめた。

「・・・こういうのも、あるんや。」

夢みるようにつぶやいた猪里の声が、片耳のハスキーボイスと混じって雲のように虎鉄の頭をつつんだ。
猪里の目元はふわっとゆるみ、はやくも鼻歌でメロディーを追いかけている。
虎鉄は 驚きと、ことばにできない感動を、ぎゅっと噛み締めたくちびるに押し込んだ。

「きれいだRo。」

もういちめんに金剛石の散ったほしぞらを見上げ、誰かに 囁くように唇をうかす。
虎鉄のあかいひとみが、優しくほそめられた。
そこにいないだれかを ここにいる存在を みんなにきかせるようにひくい声で歌った。
すきとおった灰茶の瞳がそのくちびるをじっと見る。

厳選されたリリックに、載せる薫りはハイブロー。
ハイプでドープなライミングに、じゃくっと野菜を齧る音がまじって苦笑する。
ふたりを吹きぬける風が、梨をまとって薄黄色にゆれる。
カラオケボックスの看板が見えてくると虎鉄は猪里の手をぎゅっと握り、何も言わずにだっと駆けだした。
息を呑んだ猪里の目が、虎鉄の跳ねる後ろ髪を追う。汗ばんだ指が、猪里のなかへ沁みていく。
てのひらにつたわる虎鉄の熱 がさついた肉刺の感触を、猪里はたいせつに。

あじわうように、とじていた。










虎鉄がわからない。

猪里がわからない。

ふたつの「わからない」がふたりを迷子にする。わからなくて、ちょっと裾をめくってその下の色を見てみたり いっぽうは訝しげに眉をひんまげて、いっぽうは驚いたように目をみはる。
ある瞬間、はっと分かった気分になる。喜びいさんで答え合わせにいけば、どかっとしたたかに顔をぶつけて はげしい痛みにへたりこんでしまう。そして もういちど思う、「わからない」と。

すきとおったオリーブ色 闇にかがようあかるい緋。

あまりにちがう、おなじやさしさで出来てるものたちを。おれたちは


――のめりこむように、互いのひとみを覗いている。




〈終〉


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※母親の逝去を機に、虎鉄一家は埼玉へ転居。
※猪里はそれを知らない。



13/03/22